慧喜~Trip of the art

観○光 ART EXPO 2016 鎌倉展「 ○ (円相) 」~後編~

ご訪問頂き、有難うございます
今回の記事は、前回記事からの続き、
観○光 ART EXPO 2016 鎌倉展「 ○ (円相) 」
~後編~になります。(~前編~はコチラ
北鎌倉駅周辺の 「建長寺」「浄智寺」「円覚寺(龍隠庵)」で、
開催された、観○光 ART EXPO 2016 鎌倉展「 ○ (円相) 」
~後編~記事は、「浄智寺」でしめくくりたいと思います。

朝一番で向かったので、人もあまりおらず、森閑とした境内
でも、私の中では序盤から素敵モード全開でした

浄智寺2
観○光 ART EXPO 2016 鎌倉展小冊子

澄み切った空に、紅葉が映えて美しい朝でした・・・ いいお天気でよかった
浄智寺は、鎌倉五山(鎌倉にある臨済宗の五大寺=建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)のうち、
4番目に格式の高い禅寺であるそう。
しかし、他の禅寺と比べて、野生的な自然に囲まれてて、閑寂な山寺といった感じです

浄智寺4浄智寺6

そして、いざ展覧会へ・・・!
と意気込んできたものの、敷地内のどこで展示をやってるか分からず・・・
でも、目の前にあった書院という建物で、何となくそれっぽい雰囲気を感じたので、入ってみたところ正解でした
入り口で、パンフレットを頂き、アーティストブック?みたいな小冊子を購入。

浄智寺29浄智寺7

書院の中は、こんな感じ。室内は、ガラス越しに入る柔らかな陽射しで満たされ、穏やかな雰囲気です

浄智寺10浄智寺11

そして、観○光 ART EXPO 2016 鎌倉展「 ○ (円相) 」のお作品とご対面・・・

浄智寺8浄智寺9

奥に展示されていた「Mother Nature母なる自然」というタイトルのお作品、
優しい色調の中に、生命が躍動するようなイメージを感じました。循環する生命を謳った、命の賛歌のよう
あと、画面に大胆に施された金箔が、見る角度によって強調されたり優しげだったり、
多才に輝きを放っている感じ・・・

大和田いずみさん Mother Nature母なる自然
≪Mother Nature母なる自然≫
大和田いずみさんMother Nature母なる自然2

そして、この作品の作者、
大和田いずみさんにお会いできました。→ → →
というか、大和田さんの方から声をかけて下さって、
色々なお話を聞かせて頂きました
とても明るくてフレンドリー、
爽やかな印象の作家さんです
箔を使われるのは初めてのことだったそうで、
しかも、この作品を搬入する前日に、
思い切って貼ってみたというエピソードにはビックリ
他にも、即応的に勉強になることを教えて頂きました。
大和田いずみさん、ほんとに有難うございました
大和田いずみさん1

そして、同じ部屋に、榎俊幸先生のお作品、「鷁(げき)」 が展示されていました
ずっと榎先生のブログで拝見してたから、本物を見ることができて感動・・・
途中から部屋に入ってきた中学生?の子達も、「げき、カッコイイ!」と大絶賛。
私は気負いながら見てた部分があったので、子供たちの無邪気な姿に、ちょっと気持ちが軽くなりました

榎俊幸先生 鷁(げき)2

榎俊幸先生 鷁(げき)3
(榎先生のサイトでも見られます  コチラ
榎俊幸先生 鷁(げき)1
鷁(げき)

書院を出た後は、大和田いずみさんに案内して頂き、お茶室に移動。
こじんまりと簡素なお茶室にも、面白いお作品が展示されてました。
右画像、菩薩様の光背のようなオブジェ作品をバックに座り、一人一人が菩薩様になれるというイベントが大人気
楽しそうに撮影する方々を大和田いずみさんが優しく見守っていらっしゃいました。↓↓↓
写真撮影もOKだったので、私ももちろん撮って頂きました

浄智寺12浄智寺13

次に向かったのは、「龍淵荘」というお茶室です。
中に入ると、窓が開け放たれており、風通しがいい室内にお作品が何点か展示されていました

浄智寺16
浄智寺17

真っ先に目に飛び込んできたのは、榎俊幸先生の枕屏風「楽猿図屏風」というお作品
画像に写ってないのだけど、入ってきた時、風と一緒に舞い込んできた落葉がお作品の周りにハラハラ落ちていて、
何とも風流な様子でした・・・笑

榎俊幸先生 楽猿図屏風1榎俊幸先生 楽猿図屏風3

榎先生のお描きになるお猿さん、可愛らしいですお猿さんの分け合ったり与え合っている姿にほっこり

榎俊幸先生 楽猿図屏風2榎俊幸先生 楽猿図屏風4

そして、別の一角に目をやると、何やら荘厳な雰囲気のお作品が・・・ 
作者は、花山ダンゴさんという作家さんで、作品タイトルは、「日天子」「月天子」。
仏法を守護する十二天の神様のお姿を描かれていらっしゃいます
奈良県ご出身の陶芸家の方で、現在は、天理の山深い里に陶房とギャラリーを構えていらしゃるのだとか。
奈良というのがまた素敵ですよね
仏教文化は勿論、現在に至るまでの美術品や工芸品の基となるような、ルーツ的なものが脈々と流れている場所・・・
そんな風に感じます
(花山ダンゴさんの作品をもっと見たい方は、フェイスブック・アーティストページへGO → → →コチラ

花山ダンゴさん 「日天子」「月天子」1花山ダンゴさん 「日天子」「月天子」2

「龍淵荘」を出たあと、ちょっと歩くと、祠?があったので入ってみました。
(リアルRPGみたいでドキドキしました笑) 
通路を道なりに歩いていった先に、鎌倉七福神の一体であるらしい布袋尊(ほていさん)様が・・・。↓↓↓
お腹を撫でると元氣がもらえるということで、早速ナデナデ
(後で知ったのだけど、この周辺に澁澤龍彦氏のお墓があったとか。是非お参りさせて頂きたかった

浄智寺31
浄智寺32

その後、仏殿に向かいました。
途中、鐘楼門(しょうろうもん)という門をくぐります。→ → →
(木が立派すぎて見えづらいんだけど・・・汗)
 
仏殿前のイチョウの木が大きくて綺麗でした

浄智寺20

地面はその落葉で、さながら黄色の絨毯のよう
ダイブしたかった・・・w

浄智寺22
浄智寺33

曇華殿(どんげでん)と名づけられた仏殿です。室町時代作と云われる、三世仏がご本尊としてご安置されています
三世仏(阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来様)は、それぞれ過去・現在・未来を象徴している仏様ということです。
その所以は、三世に渡って人の願いを聞き入れて下さるから、なのだそう。
曇華殿(どんげでん)の曇華とは、三千年に一度咲くという、仏教の中での伝説の花に由来するとかで、
つまり三世仏とお会いできるのは、そのくらい貴重なこと・・・という意味なのだそうです

そして右画像、三世仏の左右に、榎俊幸先生のお作品、「日月四季鳥獣図屏風」四曲一双が展示されていました 
写ってる女性は、知らない方だったのだけど、途中からいつの間にか行動を共にしてた方です笑
鎌倉五山についてめっちゃ詳しい方だったので、色々とレクチャーして頂いて有り難かった・・・。
(おかげで効率良く周れたし)
何も知らずに来た私のために、仏様がお遣わし下さった方なのかも・・・なんて

浄智寺23
浄智寺25

榎先生の「日月四季鳥獣図屏風」四曲一双は、以前にも一度拝見したことあるのだけど、(その時の記事はコチラ
仏様のおわす間でまた見ると、荘厳さが増して、もう素敵すぎる・・・
(もっと詳しく見たい方は、榎先生のサイトへGO → → →コチラ

榎俊幸先生 金屏風1榎俊幸先生 金屏風2

仏殿の裏手に回ると、南北朝時代作といわれる木造の観音菩薩立像様がご安置されていました
こちらにもお参りさせて頂いた後、外周をグルリと歩いてみることに。右画像は、外周から見た風景です。↓↓↓
最初に入った書院と庭が見渡せます。書院の茅葺き屋根が味わい深くていいですね

浄智寺27浄智寺26

外周は竹林で覆われていました。その間に続く道をずっと歩いていくと・・・
~前編~記事でご紹介させて頂いた武内カズノリ先生のお作品がっ (~前編~はコチラ
「Bottchi 」(ぼっち)というシリーズの作品で、
「震災などで命を失った人々への追悼」の思いから制作された像ということです。
人影のない場所で唐突に出合うとインパクト大なのだけど、
ひっそりと佇んでる姿には何かシンパシーを感じてしまいます

武内カズノリ先生 Bottchi 1武内カズノリ先生 Bottchi 2

その後、境内に戻ってくると・・・何やらあちこちで人の固まりができていました
よっく見ると、どうやらスケッチしに来た人の集まりみたい・・・。
皆さん、朝陽を浴びながらすごく熱心に描いていました 
中の一人に思い切って声をかけると、にこやかに対応してくださるものの、顔は一点集中、手は動かしたまま・・・
凄すぎw

浄智寺21
浄智寺30

最後に・・・
境内で見つけた、小粋なツバキ画像です 
手折って持って帰りたい衝動に駆られたのだけど、
この場所に咲いてるから美しいのだとも思い、
やめました笑
私に色々なことを教えて下さった女性の話では、
浄智寺は山深いので、台湾リスがいるのだそう
今回はその姿は見ることができず、残念だったけども、
確かに、どんな生物がいてもおかしくない感じ
でも、今回の3つの禅寺(建長寺・円覚寺・浄智寺)の
中では、素朴な佇まいの浄智寺が一番好きかも
浄智寺28

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今回、初めて出向いた観○光 ART EXPO 2016 鎌倉展「 ○ (円相) 」の展覧会ですが、
行ける機会に恵まれて本当に良かった・・・と思いました
今年の初めも、榎先生のお作品展示がきっかけで、初めて銀座の画廊さんにもお邪魔させて頂いたりと、
自分のテリトリーだけでは到底知るよしもなかった世界に触れる機会が今年はたくさんあって、
今回の鎌倉展示も含め、自分にとっては大きな経験をさせてもらえたことがほんとに良かった・・・と思います

そして、展示場所である3つのお寺(建長寺・円覚寺・浄智寺)巡りも、今回初めての経験でした
事前のリサーチ不足で、お寺に纏わる歴史とか成り立ちについて、よく知らないままで来てしまったんだけど、
その場所にいるだけで、悠久の歴史や時の流れといったものをしっかりと感じとれたように思います
そういう意味で、お寺って不思議な場所だな~と思います
知識がなくとも、その場で感じたものをすぐに自分の中に受け入れられるというか・・・ごく自然に。
それでなくとも、私はお寺がとても好きなのだけども、
何か自分の中にある源泉?みたいなものに触れられそうな気がする・・・そんな場所のようにも感じています

でも、今回は、鎌倉五山全てのお寺(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)には行くことはできなかったので、
また次回、機会をみて行ってみようと思います

・・・という訳で、
観○光 ART EXPO 2016 鎌倉展「 ○ (円相) 」
の記事は、前編も後編も長くなってしまいましたが、
最後まで読んで頂いて有難うございます
ブログへの画像掲載をお許し頂いた作家の皆様、
本当に有難うございました
毎回、更新が遅くなってしまう当ブログだけど、
いつも訪問して下さる皆様、
新規で訪問して下さった方々、感謝感謝です・・・
今日とあさっては、クリスマス
皆様にとって楽しい聖夜となりますように
浄智寺14


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国立新美術館にて 

ご訪問有難うございます 今回は、作品作りの合間の、ちょっと小休止的な記事になります
国立新美術館に行ってきました。まず入ったのは、「第62回 一陽展」という公募展覧会です。↓↓↓
一陽会(昭和30年に創立)という大きい団体が主催の展覧会ということです
↓↓↓一陽展の会期↓↓↓
■2016年9月28日(水)~10月10日(月・祝)まで(10月4日(火)は休館日)
■10時~18時(入館は17:30まで) 最終日10時~15時(入館は14:30まで)

20160928国立新美術館1一陽展入り口

↓↓↓会場内に入ると・・・凄い作品数  しかも作品のサイズが大きい (ほとんど100号以上かな?)
作品が大きいから、これだけ広い空間の中でもすごく見栄えがします・・・

一陽展会場2一陽展会場1

↓↓↓会場内、とにかく広いので歩きまわりまくり笑  
連なっている展示でも、一つ一つの作品が周りに影響されてないというか埋もれてなくて、燦然と個を放っているかのよう・・・

一陽展会場4
一陽展会場3

↓↓↓展示されているジャンルは、絵画・版画・彫刻みたいで、彫刻作品も広いスペースに展示されてました。
右画像、画面が小さいので分かりづらいですが、凄くレベルの高い鉛筆画で、作品の前に絶えず人が集まってました
作者は、福山歩由美さんという方で、調べてみたところブログを発見!このブログに掲載されている鉛筆画が凄すぎる
勝手にリンクさせて頂いても大丈夫かな?スイマセン ご興味のある方はクリック → → →福山歩由美さんのブログ
リンクの件、福山歩由美さんにご了承頂きました

一陽展会場5一陽展会場7

そして、こちらの彫刻作品のご紹介・・・。
リンクさせて頂いているFC2ブログ「ひだまりの花々」さんの、
管理人hiougiさんのお作品です
私は、彫刻のことはよく分からないのだけど、
ただ、顔を描くのよりはるかに難しそう・・・(当たり前か汗)
骨格や顔の造作によってできる影とか、とてもリアル・・・
そして、何か表情に感情が表れてるように思います。
今回、hiougiさんに一陽展のことを教えて頂いたことが、
足を運ぶきっかけになったので、本当に感謝感謝です
これまで知らずにきた世界に触れることができて
嬉しく思います。有難うございました
一陽展会場8

一陽展会場9
一陽展会場10

↓↓↓そして、現在、国立新美術館で開催されている企画展、
「アカデミア美術館所蔵  ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」を鑑賞してきました
本来なら一つの企画展について、じっくりと記事を作らせて頂きたいところなのだけど、忙しいので今回は記事作りは断念・・・
■会期は10月10日(月・祝)まで(10月4日(火)は休館日)

日本とイタリアの国交樹立150周年を契機とした、
アカデミア美術館所蔵品による本邦初の展覧会とのこと。
大きな見どころは、ヴェネツィア盛期ルネサンス最大の巨匠、
ティツィアーノが晩年に手掛けた祭壇画の大作
「受胎告知」(サン・サルヴァドール聖堂)→ → →
何よりも、絵の大きさにビックリしてしまいました

ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たちパンフ
受胎告知
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ≪受胎告知≫
油彩/カンヴァス 410cm×240cm サン・サルヴァドール聖堂

↓↓↓そして、もう一つの企画展は「ダリ展」。 こちらの方も見たかったのだけど、時間の都合で断念・・・
スペインが生んだ奇才サルバドール・ダリ。
世界各国、そして国内から重要作品が集められ、日本では過去最大規模のダリ展になるのだそうです また来なくちゃ

↓↓↓ダリ展の会期↓↓↓
■2016年9月14日(水)~12月12日(月)まで(休館日は毎週火曜日)
■10時~18時(入館は17:30まで)毎週金曜は20時まで。10/21(金)、22(土)は22時まで。(入場は閉館の30分前まで)

ダリ展パンフ2ダリ展パンフ1

↓↓↓気がついたら、館内には閉館を告げるアナウンスが・・・。
外に出て美術館を見上げると、ライトが綺麗で思わず撮ってしましまいました。他の来館者の方々もいっせいにパシャパシャ
皆さん、うっとりしながら美術館を眺めてました。私も、夜までいたのは初めてだったのでちょっと感動しちゃった・・・
閉館後の美術館というのも、なかなかいいものですね

20160928国立新美術館220160928国立新美術館3

さぁ、作品作り頑張るぞ

【追記】
記事中でご紹介させて頂いた福山歩由美さんのブログで、私のブログを紹介して頂きました
めっちゃ嬉しい・・・歩由美さんありがとうございます ご興味のある方はクリック→ → → ペンシルアート@Ayumi.F

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春風萬里荘 ~北大路魯山人の家~

しばらく更新が止まっててスイマセン 
その間にもたくさんの方々に訪問して頂いて、ランキングや拍手ボタンも押して頂いたりと、本当に有難うございます  
前回記事からの続きになります。
笠間(茨城県)にある笠間日動美術館に行き、「鴨居玲 死を見つめる男」展を観たあと、
日動美術館の分館である「春風萬里荘」(しゅんぷうばんりそう)にもお邪魔しました

「春風萬里荘」とは。
陶芸、書、絵、篆刻(てんこく)、料理など、多方面で才能を発揮した芸術家・北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん)。
その魯山人がかつて住んでいた鎌倉の家を、昭和40年に笠間に移築 し、「春風萬里荘」と名付けられました。
もとより、笠間は古くから稲荷神社と焼き物で有名な町。現在でも、画家や陶芸家など作家のアトリエが点在するその一帯は、
「春風萬里荘」が移築された時に、「芸術の村」として開設された・・・・ということです

春風萬里荘 入り口門春風萬里荘 立て札

早速、敷地内に入ると、茅葺屋根で入母屋造りの大きな家が・・・ まんが日本昔ばなしに出てくる庄屋さんの家みたい笑

春風萬里荘1
春風萬里荘2

中に入ると、昔ながらのたたきの土間があり、
そこで受付をすませたあと、客間である室内に上がりました。
室内は、綺麗にお手入れをされているものの、
歴史的な時間の重みをズシリと感じるような空間でした。
所々に、非常に古い絵や書(日動美術館の所蔵品)などが
展示されていましたが、もはや室内全てが美術品のよう
室内の窓はほとんどが開け放たれていて、
そこから吹き抜けてくる風が気持ちよく、
古い建物ながら、清々しささえ感じました
画像はパンフレットからお借りしました → → →
春風萬里荘 客間
春風萬里荘  客間


↓↓↓そして、魯山人が使っていたというお茶室「夢境庵」(むきょうあん)へ
「夢境庵」とは、千利休の孫の千宗旦(せんのそうたん)によってつくられた、裏千家の名茶室「又隠(ゆういん)」を手本に、
魯山人が設計したお茶室なのだそう。
千利休の伝統を継いだ四畳半茶室、床柱は黒柿、長押は南天の樹を用い、にじり口の他、貴人口も設けられています。
(※貴人口(きにんぐち)=身分の高い客の出入のために設けた、立ったまま入れる出入口)

室内は全て撮影禁止だったので、お茶室から見える風景だけパチリ
右画像は、京都龍安寺を模して造られた枯山水による石庭です。(※枯山水=石や砂などで山水の風景を表現する庭園様式)

春風萬里荘 お茶室から春風萬里荘 お茶室から2

↓↓↓上の石庭を眺めながら、縁側でお抹茶セットを頂きました。普段は食べることのない千菓子がすごく美味しかったです
ただ風景を見てるだけなのだけど、風が気持ちよくて、いつまでも長居していたくなる・・・そんな場所でした。
建物内にも、茶房「春風庵」という喫茶室があって、そこでもお抹茶はもちろんドリンクやあんみつなども頂けます
(石庭にまで運んでくれるのはお抹茶だけみたいです)

上を見上げると、頑丈そうな茅葺き屋根が・・・。積み重ねられた茅(かや)の厚みがすごいです!
葺き替えとか大変なんだろうな・・・と思いつつ、でもそれができる職人さんがいるのが凄いなと思ったり・・・

春風萬里荘 お抹茶セット春風萬里荘 屋根


↓↓↓お茶を頂いたあとは、魯山人が使っていた洋間(書斎)に。(画像は、パンフレットからお借りしました↓↓↓
元々は馬小屋だったのを、魯山人が洋間に改造したのだそうで、部屋中央の馬をつないだ太い柱がそのまま残っていました。
床は、欅(けやき)の芯木を土間に打ち込み、木目を見せた「木レンガ」で敷き詰められています。
長椅子や棚も、全て木から作ったもの。石をそのまま積み上げたワイルドな暖炉もありました

更に、奥には自作の陶製便器「アサガオ」が。更に、裏庭へ出るドアは、なんと自らがデザインしたというステンドグラス
そして、凄いのはお風呂場。脱衣所を含めると十畳間程の大きさ(広い!)の中に、ゆったりと配された五右衛門風呂!
壁には、自作の織部陶板が青竹のように貼りめぐらされ、シュロ縄で締められている絵まで描かれています(細かい笑)

春風萬里荘 洋間
洋間
春風萬里荘 アサガオ
アサガオ
春風萬里荘 風呂場
風呂場
春風萬里荘 ステンドグラス
ステンドグラス

「万能の異才」とうたわれ、万事に凝り性であった魯山人の創意工夫が随所に見られる、洋間、風呂場、そしてお茶室。
これらは全て、魯山人の「美的空間で日常坐臥を満たさねば、美しいものを生み出せない」との考えの下で作られたのだそう。
(※日常坐臥(ざが)=起きているときも寝ているときも)

中でも、魯山人の洋間(書斎)は本当に素晴らしかったです
もともと馬小屋だったとはとても思えないほど洗練された美的空間・・・。
その中に佇んでいると、時折、庭のししおどしが「カコッ」と鳴る音が聞こえ、
部屋に置かれている大きな古時計の時を告げる音がおごそかに鳴り響き、何やら荘厳な雰囲気さえありました・・・
↓↓↓左画像は、部屋から撮ったししおどしです。)

右画像は、お風呂場を抜けた裏口?です。勝手口みたいな感じなのかな? 裏側とはいえ何とも風流ですよね。↓↓↓
もちろん、日々のお手入れあってこそのものなんでしょうけど、それでも野趣に溢れた素朴な自然が広がっていました

春風萬里荘 ししおどし春風萬里荘 勝手口

↓↓↓春風萬里荘を出たあとは、広い庭園を散策。何か人が立ってる!と思い、近づくと一体の像が
この像は、「芸術の村」の創設功労者、長谷川好三氏の像ということです。
昭和39年、日動画廊創設者の長谷川仁氏が画家と共に笠間を訪問したとき、
笠間にアトリエを作りたいという地元画家たちの要望があったことから、「芸術の村」の構想がたちあがったのだとか
そして、翌年の昭和40年に魯山人の旧家を北鎌倉から笠間に移築し、「春風萬里荘」と名付け、「芸術の村」創設。
この創設を大きく後押ししたのが、当時の市長だったこの長谷川好三氏なのだそう

画像で分かりづらいのだけど、この像のお顔がすごく良いのです。
にこやかに自然を愛でながら、特等席で気持ちよさそうに立っていらっしゃる・・・

春風萬里荘 長谷川好三氏の像2春風萬里荘 長谷川好三氏の像1

↓↓↓庭園の真ん中には、睡蓮の池が。池にかかっている太鼓橋は、老朽化のため渡れませんでしたが、
ちょうど所々で睡蓮の花が咲いていて、綺麗でした・・・

春風萬里荘 庭園3春風萬里荘 庭園2

↓↓↓風を感じ、水の音や鳥のさえずりを聞きながら見渡すこの景色。それ以外では物音ひとつしない、清浄な世界・・・。
「日本って本当に美しいな・・・」と思いました。草木や野花、ひとつひとつの生命に神様が宿っているような気がする・・・

春風萬里荘 庭園1

↓↓↓庭園から長い石段を上り、長屋門へ。何でも、江戸時代の豪農屋敷の長屋門なのだとか
この階段も何やら風流で、一歩一歩味わいながら上がっていきました。
長屋門というのがよく分からなかったので調べてみたところ、江戸時代、武家屋敷や豪農屋敷などで 、
敷地の周囲に家臣や使用人を住まわせる長屋を建て、その長屋を左右に備えた門・・・が長屋門だということでした
周囲を歩いてみると、あちこちに彫刻作品がひょこっと置いてあって、像たちが隠れんぼしているみたいで可愛かったです

春風萬里荘 長屋門へ1春風萬里荘 長屋門へ3

↓↓↓春風萬里荘では、売店もあり、魯山人作の陶器の複製や、絵や書などをプリントした手ぬぐいが売られてました。
中でも、ひとつの手ぬぐいが目に入ったのですが、、横に貼ってあった説明書きに感動し、即購入しました

この言葉は、孔子の「論語」の中で、
孔子が、最も信頼していた愛弟子の顔回(がんかい)に向けて
述べた言葉なのだそう。この言葉を、魯山人は好んでいたのだとか

【原文】    
子曰。賢哉回也。一箪食、一瓢飲、在陋巷。
人不堪其憂。回也不改其楽。賢哉回也。 


【現代語訳】
孔子が言われた。
「偉いね、回は。竹のわりご一杯の飯と、ひさごのお椀一杯の水、
それだけしかなくて、わびしい路地の暮らし。凡人ならその辛さに耐えられない。
回は、それを楽しんで改めない。偉いね、回は。」


孔子の最愛の弟子であった顔回は、
食べ物にも事欠いた貧窮生活の中、ひたすら学問と徳行に励みました。
孔子は、そんな顔回を褒めたわけですが、
貧しい中、一生懸命頑張っている姿を褒めた・・・ということではなく、
顔回が、常に求道者として道にいそしむことを楽しんでいたからこそ、
貧窮生活も全く苦にならないという、
そんな生き方を、絶賛したのが上の章句なのです
私も、この言葉に感動してしまったので、
この手ぬぐいをぜひ額に入れて飾りたいと思い、今、手頃な額を探し中です
孔子 手ぬぐいタテ


そして、もう一つ購入したものは「魯山人味道」という本。
魯山人の随想をギュッと集めた内容になっていて、ずっと読んでるのだけどこれが面白いのです・・・↓↓↓

本によると、魯山人さん、子供の頃から不幸な境遇で、
十代後半から四十までと長い不遇時代があったようです。
後半生で一気に花開き、書、絵 篆刻(てんこく)、陶芸
などに力を注ぎますが、終生追い求めたのは美食。
多芸多才だった魯山人さんだけど、
この方はやはり天性の美食家なのだと思いました
魯山人さんにとって、料理は絵や書などの芸術と同じ価値、
いや、それ以上のものだったのかもしれないと
特に後半生は作陶に没頭されたらしいですが、それすらも
「食い物を美味く食うために、自分で食器を作り出す」
「俺の料理は、こういう食器に盛りたい」という
徹底した食道楽のなせる業であったのだとか
魯山人味道

魯山人さんの名前を私が初めて知ったのは漫画の「美味しんぼ」です
その中に、海原雄山が主宰する「美食倶楽部」という会員制料亭が出てきますが、
実際に、魯山人が大正10年に設立した「美食倶楽部」をモデルにしているのは有名な話だと思います
関東大地震後に、この「美食倶楽部」を母体として作られたのが、「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)という会員制料亭。
この「星岡茶寮」で、魯山人が主催者として采配を振い、出す食器類は全て魯山人が制作したものだったとか。
陶芸家としても有名な魯山人ですが、その評価はこの時代に始まったものだったそう

しかし、後に星岡を追われ、魯山人の才能に負うところが大きかった星岡と共に魯山人の活躍は終息していきます
晩年は、頑固で他と強調しない性格が災いして、家族とも別れ、孤独な日々を送ったのだとか。
寂しさをまぎらわすように作陶と書に打ち込み、ますます世間と逆行する生活を送っていた魯山人は、
世間から冷遇され、嘲笑を浴びていたようです。しかし、そんな中にあっても魯山人は、
私は人間の皆が、美しいことを好み、良い物を良いと分かり、本当の道を歩くことが本当だと分かり、
仮にも邪慾の道に陥ることのないよう
」力を尽くしたいと念願し、昂然とした姿を見せていたそう。
魯山人が亡くなってから、世間は彼が天才であったことに初めて気付いたのでした

ところで、「春風萬里荘」の春風萬里(しゅんぷうばんり)という言葉、李白の漢詩にある言葉で、
魯山人が好んで用いていたらしい・・・のだけど、ザクッと調べてみたところ、そんな言葉ないっぽい?のです。
「春風」と「萬里」という言葉はそれぞれ独立して出てくるので、おそらくこの二つを合わせた造語っぽい・・・
(自由度の高い魯山人さんのことだからありえる笑)

だから、正確な意味は分からないのだけど、私が勝手に解釈したところでは、
「遠く彼方まで、軽く清々しい春風が吹き抜けていく」・・・といった意味になるのかな?と思いました
およそ、世間と逆行するかのように生き、傍目からは不幸な境遇ににうつっていたかもしれない魯山人さんですが、
その境涯は、春風のように軽く、突き抜けて自由なものだったのかな・・・と。(または、そう願われていたか)
孔子が褒めた愛弟子の顔回(がんかい)が、道を求め楽しんでいたからこそ、貧窮生活が苦にならなかったように

・・・まだまだ思うことはたくさんあるのだけど、長くなってしまうので今回はこのへんで・・・(十分長いんですけど~~w)
本当は、この日の予定では、「春風萬里荘」を出たあとに笠間稲荷神社にお参りして、
売店でおやつを買って境内で食べようと思ってたのだけど(神社周辺で売ってるお饅頭とかホンット美味しいんです)、
春風萬里荘があまりにも居心地がよくて、つい長居してしまい時間切れとなってしまいました
また今度、紅葉の美しい季節に行ってみたいな・・・


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鴨居玲  死を見つめる男

笠間(茨城県)にある笠間日動美術館に行ってきました
もう会期は終了してしまいましたが、「鴨居玲  死を見つめる男」 展を鑑賞してきました。

昨年、東京ステーションギャラリーという美術館で、
初めて見た鴨居玲さんの絵は、
まるで死の淵を覗いているかのように暗く、
後々までひきずられるように心に残るものでした
その時のことをブログの記事にさせて頂いたのですが、
記事を作るにあたり、色々と調べていく中、
笠間日動美術館は、東京・銀座にある日動画廊さんが、
母体となっている美術館だということを知りました。
鴨居玲さんは生前、この日動画廊さんと
公私共に長く深いお付き合いがあったのだとか
なので、ぜひ行ってみたいと思っていた美術館だったのです。
ちょうど展覧会が開催されていたのでラッキーでした

前回記事は 鴨居玲展(1)(2)(3)(三部に分けています)

笠間日動美術館入り口
鴨居玲 死を見つめる男パンフ

受付をすませて美術館の敷地内に入ると、まず目に入ったのは、フランス館という展示館。↓↓↓

日本の近代絵画に影響を与えた印象派から
エコール・ド・パリの巨匠たちの名画の常設館です。
中に入ってビックリ。モネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、
セザンヌ、マティス、ピカソ、シャガールなどなど
平日の朝早い時間だったので、館内には私しかおらず、
巨匠たちの名画に囲まれ、もはや息苦しいほど・・・汗。
でも、すごく贅沢な時間を過ごすことができました
レオナール・フジタさんの自画像も展示されていて、
机に向かうフジタさんの手には面相筆が。
その横には硯(すずり)が置かれてあるのを見て、
ちょっと嬉しくなってしまいました
笠間日動美術館入り口2
フランス館の中でひときわ目立っていたアンディ・ウォーホルの「C夫人像」→ → →
(美術館パンフレットの画像からお借りしました。)

妖艶で美しい女性が描かれていますが、この「C夫人」とは、
日動画廊副社長、笠間日動美術館副館長でいらっしゃる
長谷川智恵子氏のことなのだとか
他にも、巨匠の方たちによって制作された「C夫人」の作品が、
館内あちこちに展示されていました。(肖像画や彫刻作品など)
巨匠たちと長谷川智恵子氏との交流の思い出が、
形になって残されているのが凄いですね
アンディ・ウォーホル C夫人
アンディ・ウォーホル≪C夫人像≫1975年

↓↓↓フランス館を出て、上のほうに歩いていくと「野外彫刻庭園」というエリアが広がっていました
ここには、日本の具象彫刻界を代表する作家さんの彫刻作品が展示されていました。
周りは竹林で、風で笹が鳴る音が心地よく、時折、頭上で竹が割れるような音がして、風情たっぷり・・・

ずっと、眼を閉じて佇んでいると、ふと不思議な感覚を受けました。彫刻の像たちからの視線を強く感じるのです。
でも、決して嫌な感じではなく、来館者に対しての興味津々の視線・・・。ここの像たちは生きてるのかな
像の作者の方々はもう亡くなられているのだけど、作家さんの魂が像と一緒にいるのかもしれない・・・なんて思ったり
私には、スピリチュアルなものを感じる力はないのだけど、本当にそんな風に思えてくるような不思議な空間でした。

野外彫刻庭園2野外彫刻庭園4

↓↓↓野外彫刻庭園を抜けて、鴨居玲さんの展示が行われている企画展示館へ。すごく大きな橋を渡るのですが、
渡っていると、いきなり頭上や真横からウグイスの鳴き声が。姿が見えそうなくらいの至近距離からなのが凄いですよね
他にも、これまで聞いたことのないような鳥の鳴き声がして、双眼鏡を持ってくればよかったと思いました・・・

笠間日動美術館 企画展示室へ1笠間日動美術館 企画展示室へ2

↓↓↓橋の周りは、竹林と木に囲まれて鬱蒼としています。ひんやり涼しく、まるでオゾンのシャワーを浴びているかのよう
途中に、オープンテラスのカフェもありました。この時は営業してなくて、入れなかったのが残念・・・!
外のメニュー表を見ると、ドリンクはもちろん、ピザやパスタ、ケーキなど頂けるみたいです

笠間日動美術館 企画展示室へ3カフェ・ド・ローブ

そして、鴨居玲さんの展示室へ。
展示は、デッサン画と油彩画に分かれていました。
朝の時間帯だったので、人もそんなにおらず、
一つ一つの作品をじっくり見てまわることができました!
前回の東京ステーションギャラリーでは展示されてなかった作品が
見られたのもラッキーでした

改めて思ったことは、
鴨居玲さんのデッサンって本当に素晴らしいなということ・・・
玲さんにとって、デッサンは作品ではなく
作品へ昇華させるための日々の鍛錬に過ぎなかった・・・
と思うのだけど、
私は、鴨居玲さんのデッサン画がすごく好きなのです
上手く説明できないのだけど、対象から受ける印象の
一番鮮やかな瞬間をそのまま画面に止めてしまったみたいな?
だから、とても瑞々しい印象を受けるのです

鴨居玲さんは、画家として画壇で認められた後も、
生涯、デッサンの修行を欠かさなかったといいます。
ひじが変形し、腱鞘炎になるほど打ち込まれていたのだそう
踊り候え
≪踊り候え≫1974-75年

鴨居玲さんの展示を見た後は、パレット館に
このパレット館には、著名な画家の方たちが愛用していた
パレットが展示されていて、その数、常時230点!
このコレクションは、笠間日動美術館にしかないのだそう。

展示室に入ると、色鮮やかなパレットが壁にびっしり
(ピカソやダリなどのパレットが展示されてたのもビックリ!)
絵具を盛っているのもあれば、絵を描いてるものもあり、
油壷や軍手をコラージュみたいにくっつけちゃったり
それぞれの作家さんの個性が、ギュッと凝縮されてる感じ。
笠間日動美術館 パレット館

このパレット画コレクションは、長谷川仁氏(日動美術館及び日動画廊創立者)が、
親交を深めた画家の方たちに願い出て、多年に渡り収集されてこられたものなのだそうです

その他、画家本人や遺族などからの寄贈なども続き、
今では世界に例のない一大コレクションとなっています。
収集のきっかけは、長谷川仁氏が、
生前のユトリロが画商に贈ったパレット(絵を描いたもの)を
見たことだったのだそう。
そのパレットには、ユトリロ画の色彩だけでなく、
筆触の癖や作品の秘密などがはからずも表れており、
それを見た長谷川仁氏は、
「画家の手の跡や息づかいがしみ込んだパレットを
集めておけば、それはそのまま日本の近代洋画史の
側面を語る重要参考品となる」
と、考えられたのだとか
ユトリロ パレット
≪ユトリロのパレット≫1933年頃 28×37cm

そして、鴨居玲さんのパレット!→ → →
実物はすごく大きくてビックリしました
もはや、手に持てるサイズじゃなかったです・・・笑
蓄積された油絵具からは、積年の苦悩が偲ばれ、
鴨居玲さんの「生きた証」が鮮やかな形となって
胸に迫ってきました
その他、たくさんのパレット画について、私の勉強不足で、
お名前を知らない作家さんが多かったのだけど汗
それでも、本当に楽しめました!
写実絵画界を代表される森本草介先生や、
諏訪敦(すわあつし)先生のパレット画も展示されていて、
どちらも、涼やかな美女が描かれていたことに感動
鴨居玲 パレット
≪鴨居玲さんのパレット≫1984年 55×89cm


そして、美術館ショップで本を二冊購入
まず、パレット館に展示されているパレット画選集。
そして、「鴨居玲 死を見つめる男」。
生前の鴨居玲さんと深い親交のあった日動画廊さん。
その副社長でいらっしゃる、C夫人こと長谷川智恵子氏が、
玲さんとの思い出話を中心に、書された本です
前回、鴨居玲さんの記事を作らせて頂いた時、
ちょっと疑問に思ったことが何点かあって、
ネットで探しても情報が見つからないでいたのだけど、
この本に、ほぼ書かれてあってスッキリしました笑
更に、長谷川智恵子氏のお写真も何点か掲載されていて、
神がかった美貌にビックリ・・・美しすぎる~
笠間日動美術館 本

そして、鴨居玲さんと生活を共にしていた、カメラマンの富山栄美子さんという女性について。
現在まで残されている鴨居玲さんの写真は、ほとんどが富山栄美子さんよって撮られたものらしいのだけど、
この富山栄美子さんについて、画像はおろか情報とかもほとんどネットに出回ってなくて、ちょっと謎の女性だったのですが・・・
この本で、やっとお会いできました
男っぽくてパサっとした感じの女性をイメージしてたのだけど、写真の富山栄美子さんは意外にも超ファニーフェイス 
そして、意外だったのは、鴨居玲さんが子供好きだったということ。子供たちと戯れている写真とか、とてもキュートです
鴨居玲さんの素顔がギュッとつまっている「鴨居玲 死を見つめる男」、オススメの一冊です!

美術館を出た後は、「春風萬里荘」(しゅん ぷうばんりそう)に向かいました
陶芸や料理など、多方面で才能を発揮した芸術家・北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん)。
そんな魯山人が住んでいた鎌倉の生家を、昭和40年に笠間に移築 し、日動美術館の分館として公開している施設です。
建物内部は、住んでいた当時そのままで遺作の名品が展示されていることから、魯山人の美術館といってもいいかも
それはまた、次回に・・・

長~い記事を読んで頂いて、有難うございます

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英国の夢 ラファエル前派展

すでに終わってしまった展覧会なのですが、
渋谷にあるBunkamura ザ・ミュージアムで、
「リバプール国立美術館所蔵 英国の夢 ラファエル前派展」を
観てきました  ラファエル前派とは・・・??
私自身、あまりよく分かってなかったので色々と調べて、
かなりざっくりとまとめてみました

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと共に
盛期ルネサンスの三大巨匠と呼ばれるラファエロ・サンティ。
ラファエロの描く優雅な古典様式や、
対象をより美化して描く様式美などが、
長くヨーロッパ美術の基本とされており、
英国ロイヤル・アカデミー美術学校の模範となっていました
そんな形式美を求めるアカデミズムに反発した7人の若者が、
ラファエロより前の時代の、「ありのままの自然を正確に写し出す」
という素朴な絵画に回帰しようと、
19世紀半ばに結成したのが「ラファエル前派兄弟団」です

その活動期間は短いものでしたが、当時、造船業や工業が繁栄し、
英国随一の港町となっていたリバプールで生まれた中産階級の市民
(お金持ち)が、同時代に生きる彼らの作品を収集しました。
それらは、現代では貴重なコレクションとして、
リバプール国立美術館に収蔵されています
今回の展覧会は、その所蔵品のみからの展示で、
新しい絵画の時代を作ろうとした当時の若い画家たちの足跡を
たどっていくことができる、というものでした
ラファエル前派展パンフ2

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たくさん作品が展示されてたのですが、とりあえずポストカードで売ってた絵をアップさせて頂きます
まず、ラファエル前派の主要メンバーだったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの絵です。
左が「シビラ・バルミフェラ」で、右が「パンドラ」
↓↓↓「シビラ・バルミフェラ」とはヤシを持つ巫女のことで、ヤシは美の勝利を表しているのだとか
見えづらいかもですが、左側の薔薇と目隠しされたキューピッドは盲目の愛の象徴、右側のポピーと頭蓋骨は死の運命を暗示、
そして蝶は旅立っていく魂の象徴なのだとかで、「愛と死」をテーマにしている絵なのだそう・・・

シビラ・バルミフェラ
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
≪シビラ・バルミフェラ≫1865-70年     
パンドラ
≪パンドラ≫1878年

このロセッティさん、多くの女性と複雑な恋愛関係にあったようで、数々の作品にその女性たちの姿が美しく残されています。
右の「パンドラ」は、友人の画家の妻がモデルらしく、晩年、この人妻の女性と恋愛関係があったとかないとか・・・↑↑↑
描かれたパンドラの箱には「希望が最後に残った」という言葉が刻まれているのだそう・・・
真相は分からないけれど、晩年の彼にとってミューズのような女性だったのだろうか?
いずれにしても、ロセッティさんの描く女性は皆、彼にとって「宿命の女」だったのに違いない・・・

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↓↓↓次は、ラファエル前派の創立メンバーの一人、ジョン・エヴァレット・ミレイの「いにしえの夢-浅瀬を渡るイサンブラス卿」。
ミレイの画業の初期における最も野心的でロマンティックな一点・・・だということです
頼もしい老騎士がどのようにして2人の子供を馬に乗せたかという以上の解説はなく、見る者の自由な想像に任されたのだそう。
発表当時は、馬が不釣合いに大きいなどの理由で不評だったらしく、後年になっても何度も手直しをしていたのだとか・・・

いにしえの夢-浅瀬を渡るイサンブラス卿
ジョン・エヴァレット・ミレイ≪いにしえの夢-浅瀬を渡るイサンブラス卿≫1856-57年

次もミレイの作品「ブラック・ブランズウィッカーズの兵士」↓↓↓
ブラック・ブランズウィッカーズとは、イギリス・オランダの連合軍と組んでナポレオンと戦った部隊のことなのだそうで、
この絵は戦いの前の、兵士と恋人の別れの瞬間を描いた絵なのだとか。(何故か、背景に敵であるナポレオンの絵が・・・)
まさにこれから戦地へ赴こうとしている兵士を、女性がドアノブに手をかけて引き止めているのが切ない・・・
また、サテンのドレスの質感が凄いこと・・・ドレスには「おろしたて」を示す折り皺まで描かれ、女性の心まで伝わってきます。
ミレイにとって、「別れを強いられる恋人たち」というのは、主要テーマの一つだったのだそう
彼は、私生活でも道ならぬ恋に陥っていました。
当時の美術画壇への反発が主となって、
若者たちで形成された「ラファエル前派」。
当然風当たりが強く、何をやっても非難の的だったのだそう。
そんな時に強力に援護し、後押しをしてくれた美術評論家の
ジョン・ラスキン氏という人物がいるのですが、
このラスキン氏の妻エフィとミレイは恋に落ちてしまうのです
妻はラスキン氏との婚姻無効裁判を起こし、
それは当時、大スキャンダルとなりました。
それがきっかけで、ミレイの絵の評価は下がっていきました。
この時に、「いにしえの夢-浅瀬を渡るイサンブラス卿」を発表。
しかし、「馬が大きすぎる」などと不評を買ってしまったのも、
このことが少なからず背景にあったからなのかもしれません。
援護者だったラスキン氏も、この絵を厳しく非難したのだそう。
そして、ミレイはラファエル前派を離れていきました

その後、裁判でエフィは勝訴し、二人は正式に結婚。
しかし、ヴィクトリア時代の社会において、
「夫を捨てた」エフィへの非難はやむことはありませんでした
当時、ヴィクトリア女王から寵愛を受けていたミレイですが、
女王はエフィとの謁見を拒絶していたのだとか。
更に、結婚後は、8人の子宝に恵まれた二人でしたが、
ミレイは生活のために、大衆受けのする絵を描くようになり、
ミレイを、流行を追うだけの商業画家に貶めた妻として、
エフィの悪評は、確固たるものになっていったのです
ブラック・ブランズウィッカーズの兵士
ジョン・エヴァレット・ミレイ
≪ブラック・ブランズウィッカーズの兵士≫1860年

しかし、後半生、ミレイは肖像画家としての成功を収め、ロイヤル・アカデミーの総裁にも就任しています。
のちに病気になり死の床にあった時、ヴィクトリア女王から「何か出来ることはないか」と伝言が届けられたのですが、
ずっと拒絶されてきたエフィとの謁見を受けてほしいと願ったのだとか。それは認められ、数日後に彼は67歳で亡くなりました。

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↓↓↓次は、ローレンス・アルマ=タデマ(1836–1912年) の「お気に入りの詩人」
このアルマ=タデマ さんの絵が目に入った時、あまりの繊細な美しさにしばらく目を離すことができませんでした
古代ローマ・ギリシャなど歴史を題材にした絵画を描いた、ヴィクトリア朝時代を代表する画家の一人です。

ヴィクトリア朝時代の人々は、女王のもとで繁栄を誇る大英帝国こそが、古代ローマ帝国後継者であると思っていたようで、
古代ローマ・ギリシャの芸術や建築に対する人々の情熱が高まっていた時代だったのだとか
そのため、古代時代へのロマンや夢をかきたてられるアルマ=タデマの絵は、この時代の人々から絶大な人気を博していました。
特に、古代の建築の描写が素晴らしく、中でもアルマ=タデマの描く大理石の美しさは、他に類を見ないものでした。
古代の風景を再現しながらも、ヴィクトリア朝時代らしく官能的で気品に溢れた作風は人々を魅了しました

お気に入りの詩人
ローレンス・アルマ=タデマ≪お気に入りの詩人≫1888年

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次は、イギリス出身の女性画家
エレノア・フォーテスク=ブリックデール(1872-1945)の
「小さな召使い(乙女エレン)」→ → →
英国の伝統的な民謡「乙女エレン」の詩句を、絵画化しています。
冷酷な恋人に召使いのように仕えるエレンは、
その男の子供まで身ごもりながらも、蔑みを受けていました
その男が、結婚相手を探す旅に出るという・・・
それに同行するために、または男からの要求で、
ドレスを脱ぎ捨て、男装し、美しい髪まで切ろうとしている・・・
そのシーンの絵みたいです。
かがめた体からは、怯えともつかぬような、
エレンの不安な気持ちが伝わってくるようです
しかし、この物語、エレンの一途な思いによって、
冷酷な恋人の心が揺り動かされ、幸せな結末を迎えるそう。

そして、背景の草花や木々の描写が丁寧で細かいこと・・・!
ラファエル前派の絵は、神話や聖書、中世の文学が
主題となっている作品が多いのですが、
徹底的に自然を観察することで、
対象を精密に描写することも一つの特徴です
短命に終わったラファエル前派ですが、
その方向は、後の多くの画家たちに影響を与えました。
エレノア・フォーテスク=ブリックデールもその一人で、
のちに展覧会で彼女の作品が展示された時、
「ラファエル前派の復興者」と評されたのだとか

小さな召使い(乙女エレン)
エレノア・フォーテスク=ブリックデール
≪小さな召使い(乙女エレン)≫1905年

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次は、エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(1833~1898) の
「フラジオレットを吹く天使」→ → →
日本でも人気の高い絵で、私もすごく好きです
雰囲気がまるでテンペラ画のようですが、
水彩とグワッシュ(不透明水彩)で描かれています。

バーン=ジョーンズは、元々は聖職者志望でしたが、
ロセッティやラファエル前派の作品に接し、
芸術家としていきていくことを決意
その活動は画家だけにとどまらず、
教会のステンドグラスのデザインも幾度も手掛けました。
芸術家でもあり、敬虔なクリスチャンでもあった彼にとって、
その制作は、情熱と深い信仰心に根ざしたものだったとか
他にもタペストリーのデザインや文学の挿画、
室内装飾など手掛けるなど多才な方だったようです。

バーン=ジョーンズの作品は、神話や中世文学を主題に
しているものが多いため、その画風は、美しく幻想的です
「絵画は美しくロマンティックな夢である」・・・
という彼の言葉も残されています。
ちなみに、バーン=ジョーンズの作品は、
彼の生誕地であるイギリスのバーミンガム美術館に
最も多く収蔵されています
フラジオレットを吹く天使
エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ
≪フラジオレットを吹く天使≫1878年

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次は、ジョン・メリッシュ・ストラドウィック ( 1849-1935 ) の
「聖セシリア」→ → →
青いドレスを着た音楽の守護聖人 聖セシリアが
オルガンで聖歌を奏でている場面なのだそうです
隣にいる天使は、ロザリオを手にしながら、
うっとりした表情で聖セシリアを見守っているかのよう

今回の「英国の夢 ラファエル前派展」の中で、
おそらく群を抜いて、ギュギュっと細密な絵だったと思います。
この絵を食い入るように見つめてる人がたくさんいました
キャプションにも、「細密すぎて息苦しいほど」とかって
書いてあったような・・・笑
柔らかで透明感のある肌の質感、繊細な指・・・
近くで見ても、全く筆跡なども見えませんでした

上に上げたエドワード・コーリー・バーン=ジョーンズは、
ラファエル前派の中心人物だったロセッティを崇拝しており、
彼の方向性を受け継いだ、いわば「ラファエル前派」第二世代。

そのバーン=ジョーンズに師事していた
このジョン・メリッシュ・ストラドウィックは、
ラファエル前派 の伝統を伝える最後の一人だと
云われています
聖セシリア
ジョン・メリッシュ・ストラドウィック≪聖セシリア≫1896年

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もっと載せたい絵はあるのだけど、長くなっちゃうので割愛させて頂きます笑 (すでに十分長いんですけどね~汗)
最後に、「ラファエル前派」について、もうちょっとひとまとめ

19世紀、産業革命を契機に、急激な近代化と経済の発展をとげた、ヴィクトリア女王治世下(1837–1901年)の英国。
その中で、ラファエロを模範とする美術画壇を支配していたアカデミズムに反発する形で、「ラファエル前派」は誕生しました。
ラファエル前派を結成した若者たちは、ラファエロや伝統そのものに反発していたわけではなく、
急速に近代化していく社会に対する、若者らしい憂慮や危惧が背景にあったのだと思われます
「理想や形式美ではなく、真実はそのままに反映されていなくてはならない・・・」といったような。
そして、英国の芸術家を後援したヴィクトリア女王の存在も大きく、この時代に多くの芸術家が生まれました
彼らは、貴族と同等の地位を与えられ、その結果、ヴィクトリア朝の英国は芸術時代の大開花を見ることになったのです

産業革命により、時代が大きく転換していこうとする時に、
「ラファエル前派」の画家たちが描いたのは、聖書や神話、中世の文学を題材とした美しく夢想的な物語
こうした主題を選択したのは、古代時代への回顧や、社会やアカデミズムへの反発の他、
社会からの現実逃避も少なからずあったのではないか・・・と私は思います
その上で、若い画家たちが現実に体験したロマンス、愛、夢、情熱、苦悩・・・といった人間的な感情の軌跡が、
夢想的な物語に生命を与えたのではないか・・・と

そして、素材や対象に対する徹底的な細部描写は、とても現実的です。
ロマン主義とリアリズム・・・この二元性がヴィクトリア朝時代の美術の特徴みたいで、
どちらも、力強く繁栄する社会を背景に生まれたものだったのだといえるようです

短命に終わったラファエル前派ですが、解散した理由が、芸術性の違いと女性問題だったらしいです
モデルさんなど女性を巡って色々とスッタモンダがあったのだとか。 この辺りも若者らしいというかww
時代に押し上げられる形で勢いよく咲き、短く消えていった若い画家たちの情熱と絢爛たる夢・・・
そんな夢の跡先を見ているような「英国の夢 ラファエル前派展」でした

「英国の夢 ラファエル前派展」は、現在、山口県立美術館で開催されています。
会期は、2016年3月18日(金)~5月8日(日)となっています。

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いつも、訪問して下さる方々、ちょこちょこ覗いて下さる方々、ほんとに有難うございます!  皆様に感謝感謝です・・・


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「君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ」展

昨年末のことになりますが・・・、
東京ステーションギャラリーに行ってきました
年末ということもあり、東京駅は人の行き交いが激しく、
喧騒から逃れるようにギャラリーに飛び込みました。
静寂な空間の中で、束の間の癒し・・・
開催されていたのは、
「君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ」展です。
パリにあるリトグラフ工房「Idem Paris(イデム・パリ)」にて、
各国の現代アーティストたちが制作したリトグラフ作品、
約130点が展示されていました
東京ステーションギャラリー君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ。

リトグラフは、18世紀にドイツで生まれ、
20世紀パリにて芸術的表現として大きく花が開きました
その20世紀のリトグラフの隆盛を支えたのが「ムルロ工房」。
この「ムルロ工房」にはたくさんの芸術家が訪れ、
ピカソやシャガールも、版画制作のために通っていたのだとか。
この「ムルロ工房」を、1997年に現在のオーナーが受け継ぎ、
「Idem(イデム)」と改称。
当時の建物やプレス機などもそのまま使われています。
ピカソが使っていたものを今でも使ってるって凄いですよね
現在は、デジタル画像からの印刷も可能になり、
まさに過去と現在が、融合している場所だといえます。
パリの中央にありながら隠れ家的な建物なのだとか↓↓↓


リトグラフ工房「Idem Paris(イデム・パリ)」
君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ。パンフ

そもそも、リトグラフとは何ぞや・・・??? 私もよく分かってないので調べてみたところ
元々は石を使って刷る版画だったみたいです。
平らな石版石をつかい、水と油の反発作用を利用して刷っていく、という技法なのだとか・・・(よく分からないけど汗)
彫ったり削ったりする必要がなく、版に直接描いた絵をほぼそのまま紙に刷り取れるのが特徴なので、
作家が描いた筆の調子やタッチなどが生かされ、版画の中で最も自由な表現の出来る技法と言われています

現在のリトグラフは、扱いやすい金属版(アルミなど)を使うのが一般的らしいのですが、
「Idem(イデム)」では、できるだけ石版を推奨されているそうです。石版だからこそ出来る表現というのがあるのだとか
刷った後、描画を磨き落とし真っ白になった石版は、再び別のアーティストによって新しい作品に生まれ変わっていくのだそう。
(Idemにお勤めの方(日本人女性)のブログを見つけたので、ご興味のある方はコチラ

展示されていたのは、フランスのアーティストをはじめ、アメリカの映画監督としても有名なデヴィッド・リンチさんの作品等々。
各国の現代アーティストたちが、「Idem(イデム)」に魅せられ、この工房から作品を発信しています

デヴィッド・リンチ 「頭の修理」
デヴィッド・リンチ≪頭の修理≫2010年
キャロル・ベンザケン「伝道の書 7章24節、Ⅷ」
キャロル・ベンザケン≪伝道の書 7章24節、Ⅷ≫2007年

ピエール・ラ・ポリス「君のおぞましい蛍光ステッカーⅥ」
ピエール・ラ・ポリス≪君のおぞましい蛍光ステッカーⅥ≫
2007年
ダミアン・ドゥルベ「アストラリス」
ダミアン・ドゥルベ≪アストラリス≫2011年

日本からは、やなぎみわさん(現代美術家、演出家)の作品が展示されてました。
2015年にパリに約一週間滞在し、「Idem(イデム)」で、初めてのリトグラフ制作をされたのだとか。
やなぎみわ「無題Ⅱ」
やなぎみわ≪無題Ⅱ≫2015年
ジャン・ミシェル・アルベロラ「大いなる矛盾Ⅱ みんなで知恵を出しあう」
ジャン=ミシェル・アルベロラ
≪大いなる矛盾Ⅱ みんなで知恵を出しあう≫2012年

そして、この展覧会の「君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ」という変わったタイトルは、
作家原田マハさんの最新小説「ロマンシェ」に出てくる言葉からとったものなのだとか
小説はフィクションですが、小説の舞台は、実在する「Idem(イデム)」。
主人公は、画家を目指して渡仏した美大生で、idemを通じて様々な出会いを経験し、
この工房で制作した作品によって、日本で展覧会が開かれるまでを書いた内容となっています
小説の中で企画されたこの日本での展覧会が、今回の「君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ」展であり、
フィクションの続きを、リアル(現実)で体験することができる・・・といった、小説とコラボしたユニークな展覧会なのです
(ということを、観た後で知ったんですけどね汗)

「君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ」展は、
2016年2月7日(日)までの開催となっています。
もうあまり日数がないんですけど、
これから観に行かれる人は、本を読んでからの観覧がオススメかもです
もちろん、読まずに行っても普通に楽しめると思います

原田マハ 最新刊 「ロマンシェ」 → → → → → → 
(2015年11月 小学館より発売)

東京ステーションギャラリー次回展は、
ジョルジョ・モランディ----終わりなき変奏
2016年2月20日(土)~4月10日(日)
となっています。
原田マハ ロマンシェ

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No Museum, No Life? これからの美術館事典

東京国立近代美術館に行ってきました。
開催されていたのは、
「No Museum, No Life? これからの美術館事典」。
美術館に着いたのは、閉館30分前でしたが、
何故か、チケット売り場は外国人観光客の行列が
チケット購入にちょっと時間をとられてしまい、
実際、鑑賞した時間は正味20分くらい
もはや駆け足的に目で追っていくだけみたいな感じで、
鑑賞したともいえないのですが、
ざっくりとでも、展覧会の内容をお伝えできればと思います。
東京国立近代美術館

「No Museum, No Life? これからの美術館事典」は、国立系美術館5館のコレクションを紹介する合同展です。
(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館国立西洋美術館国立国際美術館国立新美術館
色々な時代や国のコレクションの中から選りすぐりの170点を展示。
しかし、今回の展覧会が面白いのは、作品ではなく美術館そのものをテーマだということ

普段は、作品が主役であって、表舞台に立つことのない美術館。
今回の、「No Museum, No Life? これからの美術館事典」では、作品を楽しむことは勿論、
作品にとっての舞台である美術館にも目を向けることで、展覧会を楽しむという新しい視点を提案しています
美術館と作品の関わりにスポットを当て、事典に見立てたAからZまでの36のインデックスに沿った作品が並んでいました

A=Architecture(建築)  Archive(アーカイヴ)  
  Artist(アーティスト)  Art Museum(美術館)
B=Beholder(観者) 
C=Catalogue(カタログ)   Collection(収集)  
  Conservation(保存修復)
  Curation(キュレーション)
D=Discussion(議論)  
E=Earthquake(地震)  Education(教育)
  Event(イベント)  Exhibition(展示)
F=Frame(額/枠)
G=Guard(保護/警備)
H=Handling(取り扱い)  Hanging(吊ること)
  Haptic(触覚的)
I=Internet(インターネット)
J=Journalism(ジャーナリズム)
L=Light(光/照明)
M=Money(お金)
N=Naked Nude(裸体/ヌード)
O=Original(オリジナル)
P=Plinth(台座)  Provenance(来歴)
R=Record(記録) Research(調査/研究)
S=Storage(収蔵庫)
T=tear(裂け目)  Temperature(温度)
W=Wrap(梱包)
X=X-ray(エックス線)
Y=You(あなた)
Z=Zero(ゼロ)
東京国立近代美術館内

これからの美術館事典パンフ


この36のインデックスと作品とどう関係があるのかというと・・・
たとえば、CConservation(保存修復)では、
安井曽太郎先生の有名な作品「金蓉」の、修復前(左、ヒビ入り)と修復後(右)の作品が展示されていました

これからの美術館事典10安井曽太郎 金蓉
安井曽太郎≪金蓉≫1934年 東京国立近代美術館所蔵

Conservation(保存修復)のインデックスに記載されていた内容です

劣化、汚損、破損、窃盗などの危険から作品を保護すること。
そのために作品をデータベースに登録し、一定の温湿度を保つ収蔵庫に保管する必要がある。
ときには、現状以上の劣化などを防ぐために、そして製作当初の鑑賞条件を維持したり復元したりするために、
作品に何らかの処置を施すことがある。これを修復という。

安井曽太郎≪金蓉≫は、これまで2度、修復家の手が入っている。
2005年の2度めの修復の際、青い衣服に広がる亀裂を目立たなくするため、ひび割れた箇所を埋め、青い絵具で色彩を補った。
この作品のひび割れは、製作後、程なくして生じたといわれている。
安井自身が一度、修復を試みたもののうまくいかず、一方でひび割れた状態を面白がったという逸話が残されている。
2度目の修復では、ひび割れを直そうと試みた安井の当初の意思を重視し、修復をおこなうことにした。
この処置により、ひびによってよく見えなかった人物の身体が際立つようになり、
その身体が実は複数の視点から捉えられた部分の組み合わせによって構成されたものであることが
よりはっきりと認識できるようになった。

~美術館キャプションより~

Conservation(保存修復)するということは、作品解釈に深く関与するため学芸員と修復家との連携が欠かせないのだ・・・
ということを、一つの作品を通して観覧者は知ることができるといった展示内容な訳です

最初のArtist(アーティスト)では、アンリ・ルソーの≪第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神≫

Light(光)では、壁に当てられたハロゲン光と共に、
ルノアールやモネなどの印象派作品が展示されていました。
かつての印象派の画家が、絵に取り入れた光と現代の光源を
対比させたユニークな展示です
美術館は、光(照明)に最も気を配る組織の一つなのだそう。
作品は光を浴び続ければ劣化/退色してしまうという・・・。
美術館はそれゆえに作品を照らしつつも光を制限しなければならず、
油彩画やテンペラ画は、150-180lx(ルクス)
紙作品などは50lx以下の照明下で展示することが望ましいのだとか。

ルノアール 木かげ
ピエール=オーギュスト・ルノワール≪木かげ≫1880年頃
アンリ・ルソー第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神
アンリ・ルソー≪第22回アンデパンダン展に参加するよう
芸術家達を導く自由の女神≫1905-06年
東京国立近代美術館所蔵

↓↓↓Naked Nude(裸体/ヌード)では、近代の様々な画家による裸婦像がたくさん 展示の仕方が面白いです
これからの美術館事典7これからの美術館事典6

↓↓↓Haptic(触覚的)では、マルセル・デュシャンの≪触ってください≫が展示されていました
本当に触っていいの?としばらく迷いました笑 (触らなかったけど!)
Original(オリジナル)では、私の好きなアンディ・ウォーホルのシルクスクリーン作品≪4フィートの花≫が↓↓↓
Original(オリジナル)というインデックスをつけたところに、問いかけの意味があるような気がしますね
これからの美術館事典3これからの美術館事典8

他にも、Earthquake(地震)では、関東大震災後のスケッチ画と共に、美術作品を守るための免震装置がアート作品のように
展示されていました。地震大国・日本なだけに、この装置なくしては美術館の展示も成り立たないのかもしれませんね
インデックスには時代やジャンルの区分がなく、巨大な事典の中をさまよっているような感じ・・・

Storage(収蔵庫)とインデックスをうたれた広い空間は、
国立美術館4館の美術品収蔵庫を模したものなのだとか
(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、
国立西洋美術館、国立国際美術館の4館。
国立新美術館のみ、コレクションを持ってないので収蔵室はないのだそう)

実際に収蔵庫でどのように管理されているか、
各館の収蔵庫内を写して原寸大に引き伸ばしたモノクロ写真をズラッと展示。
そのモノクロ展示の中に、さりげな~く
レオナール・フジタこと藤田嗣治さんの絵画(本物)も数点展示されていました!
本物だというのに、まるで紛れ込んでるかのような笑
4館全てに藤田作品が収蔵されているので、このような展示にしたのだとか
こういう趣向、藤田嗣治さんが生きてたら、きっと面白がったにちがいない・・・(多分)
これからの美術館事典13
これからの美術館事典15


そして、会場最後の部屋では、You(あなた)というインデックスの横に鏡が展示されていました! ↓↓↓
美術館は『あなた』なしにはありえない。『観者』『鑑賞者』、『来場者』や『お客様』という言葉は、
少しよそよそしいのかもしれない。作品も、展覧会も、美術館も、それを見る『あなた』の経験と記憶の中に生起する

~美術館キャプションより~
鏡に映る私たち観者も、美術館にとっては必要不可欠な存在ということだろうか・・・

そして、ラストのZero(ゼロ)では、広い部屋に積み上げられた箱が
箱以外には何もなく、剥き出しで寒々しいような空間
箱は、今回展示作品を収納していたもので、
この箱で運搬され、展示終了後にまた梱包されて送り返されるのだという・・・

展覧会が終わり、観客がいなくなり、壁に埋めていた作品が撤去され、
脱殻のような『空』の展示室が生まれるとき、
美術館は『ゼロ』に近い状態を経験するのかもしれない。
この最後の部屋は、美術館が普段は見せることのない、
前回の展覧会が『終わった』あとの展示室である。
それはしかし、やはり『ゼロ』ではない。
ここにはすでに、つぎの展覧会、つまり本展の出品作の輸送用クレートが
並んでいる。美術館はこうして、何度となく孵化をくりかえす。

~美術館キャプションより~

ゼロはエンドではなく、ゼロから始まる新しいストーリーがここにはあると・・・。
(カッコよくいえば笑)
これからの美術館事典19
これからの美術館事典17

閉館ぎりぎりに、外のミュージアムショップへ→ →
こんな時間まで、ショップは外国人観光客でいっぱい
「No Museum, No Life? これからの美術館事典」は、
とても面白かったです!
インデックスや展示の面白さもあり、
普段の美術鑑賞よりも楽しめたように思います
もっと、面白い展示物がたくさんあったんですけど、
何せ、鑑賞した時間が20分という短さだったので笑
それらを詳しくお伝えできないのはちと残念・・・
この美術館の常設展も素晴らしいと聞いていて、
外観の景色も美しいので、また行ってみようと思います!
東京国立近代美術館ミュージアムショップ

「No Museum, No Life? これからの美術館事典」は、9月13日(日)までの開催となっております


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永沢まこと都市画展

吉祥寺にある武蔵野市市立吉祥寺美術館に行ってきました。
開催されていたのは
「永沢まこと都市画展 ~街の今を描く、ヒトを描く~」です。
永沢さんのトークショーが行われる日に出向いたのですが、
美術館に着いたのが午後だったため、
トークショーの受付はすでに締め切られてました。
アート系のブログをたまに徘徊するんですけど、
「永沢まことさんに影響を受けて」とか
「永沢まことさんの絵に魅かれて」
絵を始めた方のブログに出合うことがよくあります
リンクさせて頂いている「線スケッチの魅力」さんもそう。
なので、以前から興味を持っていました
吉祥寺美術館1

永沢まことさんのプロフィール】
1936年東京生まれ。
アニメーター、イラストレーターとして活躍されていましたが、
1978年、40代前半に渡米。ニューヨーク・ソーホーに8年間在住。
(ニューヨーク時代の頃についてのインタビュー記事がコチラ
この間に、線描きと水彩による独自のスケッチスタイルを確立。
東京の街で今生きている人の動作や表情を一瞬で捉え、
次々と線を描きだしていく永沢まことさん
1980年代のニューヨークから現在の東京まで、
40年に渡って都市と人物を描き続けておられます
永沢まこと都市画展パンフ1

1978年に渡米され、
ニューヨークで生活された1980年代、
当時、「走るジェイル(監獄)」とも呼ばれていた
地下鉄をモデルの宝庫として好んだ永沢さんは、
人物を素早くスケッチするために、ペンを使用。
そして、多様な人種があふれる街だからこそ、
磨かれたのが人間観察力であったのだとか
タイムズ・スクエアやグランドセントラル駅などで
ニューヨーカーたちを、心の赴くままにスケッチ。
この地で、永沢まことさん特有の
スケッチスタイルが誕生しました
展示作品には、他にも五番街、ハーレム、
チャイナタウンに佇む多様な人物画スケッチが
展示されていました。
多人種、多文化がひしめいてるような絵からは、
当時の街の空気や雑多な中から生まれるパワーみたいなものを感じました
タイムズ・スクエア’80


そして1986年に帰国された永沢さんは、黒髪の日本人ばかりがいざかう、大都会でありながら緊張感のない東京の街に
違和感を覚えられたのだとか。そんなバブル期を迎えた東京でモデルとしてスケッチしたのは、
サラリーマンや主婦、学生など、いわゆる “普通” の人々でした
しかし、その現物リポートのようなスケッチを通して、人間観察を続けた末に気付いたことは、
渋谷、新宿、秋葉原など、行き交う人々の姿によって表現される街の個性があるということでした

そんな街を”絵の題材”として、類いまれな人間観察力とおびただしいスケッチの変遷を経てたどりついたのが、
個展のタイトルにもなっている “都市画”  
東京の街を、建造物と共に描かれているのは行き交う人々の姿。
永沢さんは、必ずその場所で観察しながらお描きになるのだそうで、人物の動きまでしっかりと捉えられています。
永沢さんの描かれた街からは、場所の空気や喧騒、流れるように移動する人々の動きなどが息づくように伝わってきます

              新宿歌舞伎町2011
≪新宿歌舞伎町 2011≫
             


            渋谷道玄坂下交差点 2011
≪渋谷道玄坂下交差点≫
            

↓↓↓この≪新宿歌舞伎町2014≫という作品、画像では分かりづらいんですけど、作品の左下にちっちゃく
Where do we come from! Who are We? Where are we going?」と英語のメッセージ?が。
「私達はどこから来たの?私達は誰なの?私達はどこへ行くの?」という意味になると思うんですけど、
都会に生きてる人々が抱えてる内面的なテーマのように思え、絵の雰囲気とも合っているためちょっと感傷深い気持ちに・・・

            新宿歌舞伎町2014
≪新宿歌舞伎町≫
            

館内には、永沢さんが実際に使われているペンや絵具なども
展示されていました
そして、おびただしい数のスケッチやクロッキーが描かれたノート類。
(クロッキー帳は、初公開だということです。
練習帳だとは思えないくらいの密な描き込みにビックリ)

あと、文庫本の形になっているスケッチブックも。
街の雑踏の中で、目立つことなく落ち着いて描けると
永沢さんが好んで使われるのだそうです
(私も、前に日記用に買ったことあるんですけど、続かず
捨てちゃったような覚えが汗。確かに絵の練習用にいいかも・・・)

この文庫本スケッチブックを「描きまくりノート」と称して、
一ヶ月に一冊約300ページが埋まる程描かれてるのだそう
永沢さんにとって、”描きまくる”ことこそが
本番に備えてのトレーニングになり、
一方では、名画の模写や写真を見ながら、
人物を写実的にデッサンするなどの
室内でのトレーニングも欠かさないのだそうです
渋谷道玄坂Ⅰ 2011
≪渋谷道玄坂Ⅰ≫

↓↓↓そして、永沢まことさんにとって、吉祥寺という街は地元であり、特別な街なのだそうで、
たくさんの吉祥寺スケッチが展示されていました 他にも、メンチカツを買い求めに行列に並ぶ人々の絵もあり、
地元ご出身ならではの愛着たっぷりの目線を感じました(しばらくの間、メンチカツ食べたい病にとりつかれました笑)

ハーモニカ横丁入り口
≪ハーモニカ横丁入口≫
いせや本店
≪いせや本店≫

↓↓↓そして凄かったのが、2012年から3年の歳月をかけて描かれた「吉祥寺駅前I~Ⅳ」 
ブログ画像では伝わりにくいかもですが、実際の展示は下の4点をつなげたもので、180度のパノラマが展開されてました

右画像の「富士そば」さんの上にある看板は、AKB48の柏木ゆきりんの広告です。(永沢さんの絵に登場してるのが羨ましい笑)
古いものと新しいものが混在して、雑多な魅力に溢れている吉祥寺の雰囲気が伝わってきます

吉祥寺駅前 2012-14 -1吉祥寺駅前 2012-14 -2

スケッチスタイルとは異なり、ドキュメンタリーフィルムを絵画化したような記念碑的作品だということで、
確かにスケッチというには、あまりにもスケールが大きいと思います
今ある形を刻み付けていく、それは絵であっても、絵の中で人が生きていて時間が流れていってるように思えるのが不思議です。

吉祥寺駅前 2012-14 -3吉祥寺駅前 2012-14 -4

↓↓↓この日は、トークショーが終わったあと、美術館のロビーで永沢まことさんのサイン会が行われました

画像が分かりづらいのですけど、
テーブル席の右に座られてる方が永沢さんです。
サイン会には、ズラッと長い行列ができており、
永沢さんの人気の高さが伺えました。
吉祥寺美術館のロゴマークをデザインされたのも
永沢さんなのだそう
吉祥寺美術館ロゴマーク
永沢まことさん


今回、永沢さんの絵を観て思ったことは、色々な人が生きて存在して世界は成り立ってるんだなってこと。(当たり前かもだけど)
特に、ニューヨーク時代の絵が個人的には好きだなと思いました
人種のるつぼというか、文化も人種も違う人たちが、それぞれの個性を主張しながらも、溶け合うように生活しているという・・・
ちょっと特殊な感じ方かもしれないけれど、永沢さんの絵を観ながら、
人は一人一人違っていて当たり前で、色々な人がいる雑多な世界だからこそ面白いということを感じました

改めて多様性は絶対的なパワーを生むのだと。多様性であってこそ、人が生きる本当の意味があるのだと。
オンリーワンであることが受け入れられる社会になっていくといいなと切に切に思いました
(永沢さんの絵の趣旨とは外れた見方、感じ方かもしれないんですけど、自分の気持ちをそのまま表しました汗)

「永沢まこと都市画展 ~街の今を描く、ヒトを描く~」は、8月30日(日)までの開催となっています(26日(水)は休館日)
入館料は、一般百円なのがまた嬉しいですねっ


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鴨居玲展(3)

前回に引き続き、鴨居玲展についての記事です  (前記事の鴨居玲展(1)はコチラ、鴨居玲展(2)はコチラ

東京ステーションギャラリーで開催していた鴨居玲展、
東京での会期は終了しましたが、見応えがあり、
本当に行ってよかったと思える展覧会でした

東京ステーションギャラリーは、いわゆる「駅ナカ美術館」で、
東京駅丸の内駅舎内にあり、利便性のいい場所にあります
東京駅丸の内駅舎創建は大正3年ですが、
東京大空襲による被害跡を、5年半に及ぶ保存・復原工事を得て
2012年に、創建当時の姿になりオープン

建物の内部は、創建当時の煉瓦をできるだけ残されているのだとか。
駅舎同様、煉瓦も重要文化財の一つになっているのだそうです。
ギャラリー内の煉瓦で敷き詰められた、重厚で堅牢な空間は
鴨居玲さんの作品にぴったりだったと思います
鴨居玲展 ギャラリー内(借用画像)
展覧会を紹介している記事からお借りした
ギャラリー内の画像です。素敵ですよね


私にとって、今回の鴨居玲展で一番印象に残ったのは、玲さんの残したデッサン画でした
前記事の鴨居玲展(1)と鴨居玲展(2)で、玲さんの油彩画作品をたくさん紹介させて頂きましたが、
重みのある画面が実現された作品は、玲さんのデッサン力の確かさによって支えられていたと思うのです。
師である宮本三郎氏の教えに従い、生涯デッサンを怠ることなく、
「指にデッサンのタコが出来ていないのは画家ではない」というのが、玲さんの画家としての姿勢だったとか

デッサンの中でも、速写技法であるクロッキーを好まれていて、
どこにいても、常にスケッチ帳を持ち歩き、人間の顔や体をとことん繰り返し描くことで
自身が求める画面を作るために、力強く自然に描きだすことのできるイメージを体に植えつけようとしたのだとか。
滞在したフィレンツェでも、美術館のデッサン室に熱心に通い、パリでの裸婦デッサンも欠かさなかったそうです

玲さんのデッサンで特徴的なのは、時間と空間を凝視することによって、自身が心惹かれる魅惑的な瞬間、
玲さん曰く「ギュっと凝縮するような一点」を、思うがままに描いていくということ

子供の頃や学生の頃からモデルを使ってデッサンしながらも自然にある部分を強調していますね。モデルを離れて。
必ずしもドラマティックじゃなくて、ギュッと凝縮するような一点がないと、無意味に思えてきましてね。
だから、途中からモデルをよく離れます。どんどん離れて、自分で作り直していくようなところがあります。

と、玲さんは語っていたとか。

蛾
≪蛾≫1967年
月に叫ぶ
≪月に叫ぶ≫1973年


鴨居玲さんは、デッサンを描く時、徹底して「見る人」であったといいます。
それは、描く対象を見るだけにとどまらず、徹底して個である自分の内面とも対峙することでした。

たとえば浮浪者を描くとする。しかし、その浮浪者を写生したことは一度もない。またそんなことはできないし・・・・・・。
かたちを借りるだけで私の中でつくりあげた人間なんですよ。つまり、私の自画像のようなものですね。
だから、実在のモデルなんていやしない・・・・・・。
あのねえ、そう、何というのかなあ、どうにもならない時があるでしょう。
助けて欲しい時、よくありますね。自分の人生の中で・・・・・・。どうしようもない時がね。
そういう瞬間を浮浪者の姿を借りて描いている・・・・・・。


興味があるのは人間だけですからね。学校時代にも風景とか石膏デッサンは嫌いでした。
生きてる目的、人間という不可思議なもの、それが女性であってもいいですけどね。
とにかく人間が好きなんだな、私は。それから、いままで若い人を描かなかったのは皺がないんですよ、彼等には。
人生の何かが出てこないんだな、のっぺらぼうで。
老人の皺には彼等の何十年間か生きてきた、人間のいろんなものがあらわれている。

という玲さんの言葉が残されています。
(記事中の、玲さんの言葉は全て画集からの転載です)


踊り候え1
≪踊り候え≫1979年
踊り候え
≪踊り候え≫1974-75年


鴨居玲さんは、背が高く目鼻立ちの整った容姿に恵まれた人でしたが、
(実際に外国の街を歩くたびに、振り返る女性が多かったみたいです)
酔っ払いや浮浪者の姿に、自らを重ね合わせる自虐的な内証を持っていたように思います

玲さんにとって描くということは、社会から締め出される疎外感や孤独といったものを、
酔っ払いや浮浪者の姿を借りて描くことで、自身が「生きている証」を見出す作業だったのではないか・・・と思います
そして、疎外感や孤独といったものは、私達が社会や日常において常に対峙する感情でもあり、
玲さんの絵に、共感を覚えたり引きずり込まれそうになる人が多いのは、描かれた姿に自分を見るからではないだろうか?

そして、その人間の心の本質を掴みだした絵には、そこに裏打ちされる玲さんのデッサン力の確かさを見ることができます。
玲さんにとって、自分の求める世界を表現するために、自己凝視を磨き上げていく絶対的な方法こそがデッサンでした。
ひとつの作品を描くために、100枚のデッサンを自らに課していたといいます

自己研鑽を積み上げていくこと。
生涯をそこに賭けてきた思いが、デッサン画を通して観る方にも伝わってくるようです


酔って候 デッサン
≪酔って候≫1979年
裸婦
≪裸婦≫1978年


玲さんの残した言葉の中で、私が一番好きなのは、
自分の絵が鑑賞されるという事態を想像した事もありませんでしたし・・・・。
だから自分にとって興味のある瞬間の凝縮した表情にしか描かなかったんです。
」という言葉です。

玲さんの画業人生は、初めから自分の心の声のみに従って描いてきたものでした。
つまり、自分の感覚、自分にとって一番ふさわしい描き方というものに忠実であり、それらが全てだったのでしょう
デッサンにおいて色々な表現方法がある中、どんな様式にも玲さんは影響を受けることがなかったのです。

徹底的に、デッサンを通して人間の心の本質を追求、ひいては自己を追求していくことは、
玲さんにとって、当たり前のように自然であり、描きたいものの焦点だけを求めて描いてきた画業人生だったのです

それは、あらゆる絵画の様式や既存の美学から外れてることであったかもしれません。
しかし、己だけを信じ突き進んできた玲さんの絵は、年月を経ても、いまだに多くの人の心を掴みとっています。
私が、鴨居玲さんに憧れるものがあるとしたら、そういうところだと思います・・・


道化師1
≪道化師≫1979年
道化師2
≪道化師≫1984年


玲さんのデッサンを見ていると、一つ一つが「完全燃焼」しているように見えます
はたから見て未完成に見えるものでも、一番美しい状態で止まっているかのよう。

今回、玲さんの遺されたデッサン画を見て、正直私は自分のふがいなさに泣きたくなり、そして大いに反省しました・・・
忙しいから、時間がないから絵が描けないなんて、言い訳・・・・・・。本当に自分は甘いなと頭を打ちました。
そこで、毎日クロッキー&デッサンの練習をしようと、100均でスケッチブックを大量に購入・・・
先のことは分からないし、努力しても結果に結びつくとは限らない・・・かもだけど、
”今日”という日は、自分の人生の中で一度しかない、一日一歩でも前にいきたい、いや、半歩でもいいから進みたいのです


最後に、心に残った玲さんの言葉を・・・
私の性格として、いや全くの本能的なものとして、“飛ぶ前に見る”人をどうしても信ずる気になりません。
とかく飛ぶ前に見る人は、とても美しいすりかえの論理を使用する時がある故にです。
 しかし、“飛んでから見る”という人生。これはホンマのところしんどい事であります、実感です。
たぶんフルいと、若い方に言われるでしょうけれども、
私には、これしか、この方法でしか“生きようが無い”“生きる意味が無い”といった人生を、
少なくとも物を創ろうとする人間はえらぶべきでしょう。




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今回、鴨居玲展についての記事を作らせて頂くにあたって、色々と調べていく中、
茨城県笠間市にある笠間日動美術館という美術館の存在を知りました
東京・銀座にある日動画廊さんが、母体となっている美術館ということで、
画廊の創業者ご夫妻が、1972年(昭和47年)に故郷である笠間にて開館されたのだそうです

日動画廊の現在の経営者ご夫婦と玲さんは、公私共に長くお付き合いがあったのだとか
日動美術館では、鴨居玲没後30年を記念し、今月初めから常設展「鴨居玲の部屋」が始まったとかで
未完の自画像をはじめ、大作の構想を練るため使用したテーブルや、愛用の椅子などが展示されているそうです





↑ ↑ 東京ステーションギャラリーで展示されていた、玲さん遺品のパレットも日動美術館に所蔵されているものなのだとか。
色とりどりの油絵具が、山塊のように盛られた鮮やかなパレット・・・ 玲さんの苦悩の顔まで美しく見えてしまう・・・笑

日動美術館には、国内外の著名画家が愛用したパレットコレクションなるものが常設展示されてるのだそうです
日動画廊創業者の方が、親交を深めた画家たちに願い出て愛用のパレットを譲り受けたことに端を発しており、
以来、画家本人や遺族などから寄贈が続き、現在では340点を超え、美術史的にも貴重なコレクションとなっているのだとか。

笠間といえば、昨年のお正月に、三が日を明けて笠間稲荷神社にお参りに行ったことがありました
(関係ないけど、笠間稲荷の名物?「そば稲荷」が美味しかったです!甘いお揚げの中にお蕎麦が入ってるやつ・・・)
決して近くはないんだけど汗、遠出のドライブがてらに是非とも足を運んでみようと思います

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

鴨居玲展について、(1)(2)(3)と長々とした記事になってしまいました
この記事を通して、一人でも多くの方に鴨居玲さんのことを知って頂ければ・・・と思います
いつも訪問して下さる皆様、新規で訪問して下さった方々、最後まで読んで頂いて本当に有難うございますっ


東京ステーションギャラリーでの会期は、終了しましたが、
それ以降は、2015年12月まで、北海道立函館美術館石川県立美術館伊丹市立美術館を巡回予定とのことです


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鴨居玲展(2)

前回に引き続き、鴨居玲展についての記事です
(前回記事はコチラ
東京ステーションギャラリーで開催中の鴨居玲展ですが、
本当に観にいってよかったと思いました
帰りには、ポストカードの他、画集も購入。
鴨居玲さんの記事を作るにあたって、
玲さんの芸術家としての人生を、とても私一人の力量で
伝えられるはずもなく、画集の力をお借りしようと
画集には、玲さんの写真がたくさんのってるのですが、
この写真を撮った方が、富山栄美子さんという女性写真家で、
玲さんが没するまでの14年間、生活を共にされたのだとか。
鴨居玲展 画集

栄美子さんは、玲さんから
これからは私だけを撮り続けてもらえないだろうか。
もし、私に才能がなくて認められずに死んでいったとしても一人の画家の一生、
もし、私が認められる作家になれば、それもまた一人の画家。
どちらになるにしても撮り続けてもらえるだろうか?

と請われたといいます

鴨居玲さん、アンビバレントな二面性が内在する方だったようで、
複雑な感情の中で、常に揺れて葛藤していたのだといいます。
陽気で人当たりがいい反面、人に気を遣いすぎて気疲れしてしまうような
デリケートな神経の持ち主であったとか。
ナルシストで見栄っ張り、ついええ格好しい発言をしてしまう自分に、後で恥じ、
茫然自失になるほど極度に落ち込んでしまう・・・
思ったままを口に出し、自分が気に食わなければ他者に激高する反面、
一人になると孤独感と悲壮感に苛まれる・・・
感情の起伏が激しく、荒れた時には手がつけられないこともあったようです

こんな芸術家と共に生きる難しさ、想像に難くない・・・
富山栄美子さんは、苦労することが分かっていても、写真家として一人の女性として、
追い求めていきたいものを鴨居玲さんの中に見出したのだろうか・・・
鴨居玲 アトリエにて1
    (撮影:富山栄美子)


フランス、ブラジル、イタリア、スペインと旅を繰り返し、人間の内部をさらけ出す表現を模索し続けてきた鴨居玲さん。
玲さんの終焉の地となった最後の神戸では、更に製作に苦しんだといいます。

スペインで、バルデペーニャスの人々と出会い、生の極限に生きる孤独で老醜した人々の中に、
自分の世界を築き上げていく根源を見出した玲さんですが、神戸がスペインと同じような環境であるはずもなく、
新たな課題を模索することができなかったのだとか。
同じような老人を描いても、これまでの作品の焼き直しとなり、玲さんの焦燥感は高まるばかりだったといいます

そんな苦悩の中、「1982年 私」という作品を生み出しました。
自身を凝視して描いた、これまでの画業の集大成ともいえるような自画像です。↓ ↓ ↓

        1982年 私
≪1982年 私≫1982年
       

真っ白いキャンバスの前に、放心してるかのように座ってるのは玲さん自身。その手に絵筆はありません。
周りには、それまで玲さんが描き続けてきた人物が、亡霊の如く、彷徨うようにひしめいています。
憔悴しきった玲さんの表情からは、「もうこれ以上描くものがない」という心からの叫びが聞こえてくるようです
実際、この作品が発表された翌年に、郷里金沢の石川県立美術館に収蔵された時、玲さんから画友にあてた書信に
「最後の作品と思って描いた、いつ死んでもいい」と記されているのだとか。



画業の行き詰まりから、精神的に追い詰められていった玲さんは、
ウイスキーと睡眠薬の服用で、心身ともに急速に蝕まれていきました。

そんな中で描いた作品「ミスターXの来た日」 → → →
ミスターXとは、玲さんにとって死神の喩えであり、
心臓発作を起こすたびに「ミスターXがきた!」と言っていたのだそう。
”ミスターXの来た”その日に、玲さんは心筋梗塞を起こしかけ、
医師に即入院との宣告を受けました。
が、翌月の個展の準備のために、入院生活に入る直前に
この作品を二時間で仕上げたのだとか。
迫ってくる死の恐怖に抗うようなタッチが凄いです

しかし、死神にとりつかれてる自分自身の姿を
キャンバスの上で、ドラマティックに演出したかのようにも見える・・・
といったら意地が悪いでしょうか?
アンビバレントな画家、鴨居玲さんにとって、
死は恐怖でもあり、同時に魅力的なモティーフだったのではないか・・・と思ったりしました
ミスターXの来た日 1982,2,17
≪ミスターXの来た日 1982,2,17≫1982年


心身ともに蝕まれながらも、最晩年には、消えゆく灯火が最期に大きく燃え上がるかのように自画像の傑作が生み出されました。
↓ ↓ 「酔って候」は、スペイン時代から、繰り返し描いてきた酔っ払い。酩酊し、老醜をさらした姿が描かれています。
「1982年 私」という作品を、自身の画業の墓石にしながらも、再度、お馴染みのモティーフで描いたということは、
玲さんにとって、確固たる自画像として在る主題だったのではないだろうか?

タイトルは、玲さんが敬愛していた司馬遼太郎さんの小説「酔って候」からとられたと云われています。
かつて、ブラジルで死に場所を求めていた玲さんのもとに、姉羊子さんから手紙が届き、
手紙には、玲さんの作品図版を見た司馬さんが、彼の才能と作品の魅力に衝撃を受けたことが記されていて、
それを読んだ玲さんは再起する力を得たのだとか。姉を通じて知り合った玲さんと司馬さんの親交は、深いものだったよう。
玲さんの方も、司馬さんの小説 「妖怪」 に引用された室町期の歌謡集 『閑吟集』 の一節、
「踊り候え」「夢候よ」を気に入って、作品のタイトルにもしています。

「出を待つ(道化師)」は、下塗りの鮮烈な赤が美しいです ↓ ↓
哀れで物哀しい道化師のイメージに、自己を投影させた自画像的な作品のように思います。
自らの再起に向かい、自身を鼓舞するかのような強い配色で、自画像の新たな展開をはかったとも云われています


≪酔って候≫1984年
酔って候
≪出を待つ(道化師)≫1984年
≪出を待つ(道化師)≫


↓ ↓ 「勲章」という作品。胸に4つの王冠をつけた玲さんの自画像が描かれています。
王冠は、実はビンの王冠で、勲章の象徴する栄誉や権威を皮肉っているのだとか・・・。
鴨居玲さんという方は、全く認められず終わっていった訳ではなく、多くの作品が栄誉ある賞を受けており、
公募展の選考委員も務めるなどして、特に後半生は「描けば売れる」というほど、世間的評価も高かったのだとか。
それでも、玲さんにとっては己の求める絵を描くことが何よりも大事で、その思いが込められた作品なのだそうです

しかし、「勲章」に描かれた玲さんの姿は、痛々しく悲鳴をあげているというか、空しさを感じているかのように見えます。
世間的な評価を得ていながらも、それを受ける玲さん自身が空っぽになってるかのような。
どんな賞も賞賛も届くことはない、空しい心のうちをさらけ出してるような絵だと思います

続く「肖像」という作品は、画家鴨居玲が探し続けた、自己を巡る旅の終点としての自画像といえるかもしれません。
鴨居玲という仮面をはずした姿からは、「もう描けない」という悲痛な思いが伝わってくるかのようです↓ ↓ ↓

≪勲章≫1985年
勲章
≪肖像≫1985年
肖像


そして、1985年9月7日、57歳の鴨居玲さんは自らの命を絶ちました。
奇しくも、玲さんが尊敬していた父親と同じ年齢で逝ってしまったのです。
車中での排ガスによる自死ということなのですが、泥酔した状態だったとか(つまり、ほぼ意識がなかった状態)
自殺行為は本気ではなく、狂言のつもりだったのが心臓が持たなかった・・・とか、色々な説があるようです

↓ ↓ ↓ 亡くなった直後に、アトリエに残されていた「自画像(絶筆)」という作品 ↓ ↓ ↓
「出を待つ(道化師)」と同じ衣装を着ていますが、顔に道化師の化粧が施されていません。あるいは、化粧を落とした後なのか。
道化という仮面を脱ぎ、舞台を降りようとする表現なのかもしれないし、
鴨居玲でいることに疲れ、人生を放棄しようとするということだったのかもしれません。


アトリエの一隅。1985年9月アトリエの一隅 1985年9月

≪自画像(絶筆)≫1985年自画像(絶筆)



帰国後の玲さんは、新境地を模索しながらも、自分の志と現実の自分とのギャップに苦しんでこられたように思います。
「もう何も描けない、描くことが無くなった」と、叫び続けるように描かれた最晩年の自画像たちからは、
自分を見失った、いわば自己喪失の状態にあった玲さんの姿が浮かんできそうです

何故、苦しかったのか。
まず、自己の暗闇を、芸術的表現にまで昇華させてくれるモティーフが見つからなかったことがあると思います。
そして、苦労して描いても「こんなものか」と訪れる憔悴と落胆の日々。ウイスキーと睡眠薬の併用による心身の消耗・・・。

そして、玲さんにとって「描く」ことが「生きる」ことであり、だからこそ画業には僅かな妥協も許すことができず、
真剣に向き合えば向き合うほど、受ける精神的代価が大きかったのではないだろうか・・・と思うのです
玲さんは、キャンバスを前にして、常に己の生き方そのものを問うていたのではないだろうか?


玲さんは、かつて某テレビ局のインタビューで「絵を描くとはどういうことか」と問われ、
大それた仕事です。苦痛そのもの
絵に限らず、芸術は見た人の人生を変える力を持つものでなければいけない。そのような絵を描きたい」と語ったといいます。
亡くなる年にも、同様のインタビューを受けて蕩々と語った翌日、
また、自分は偉そうなことを言ってしまった。本当は絵が売れ、名誉やお金がほしい、
広い家に住めればいいと思っているのに、そうしたことは言えない・・・

と、極度に落ち込み、茫然自失の姿をさらしていたのだとか。

自分を取り繕うかのように見栄を張り、そんな自分を許せず恥じていた玲さん。
純粋で自己に正直であったために、常に精神が疲弊し、不安定な状態でいたことかと思います。
しかし、画家鴨居玲としては、不安定な場所にいることが最も自分らしいことだったかもしれず、
そこに、玲さんの苦悩があったのではないか・・・と、私は思います


玲さんは、高橋和巳(作家)の本の一節を大切にしていたといいます。

どんなに意地をはっても、人はたった独りでは生きてゆけない。
だが人の夢や志は、誰にも身替りしてもらうわけにはいかない。
他者とともに営む生活と孤立無援の思惟との交差の仕方、定め方、
それが思想というものの原点である。
さて歩まねばならぬ。


人と共存していく上で、目指す芸術世界のために
どのように他者と関わり、また自己を貫いていくか。
他者と高い地点で、深い関わりを求めていた玲さんにとって、
初めて心を開くことができ、自分を解放できた場所、
そして、自分の芸術世界を築く根源を掴んだ場所が
かつて滞在したスペイン・バルデペーニャスの村でした。
そこで、出会った社会の底辺に生きる孤独な人たちの姿に
自分を重ね、人間の弱さ、孤独といった暗闇を描き出しました。
鴨居玲 おばあさんと一緒に
   おばあさんと一緒に  撮影:富山栄美子

それは、同時に自分の心の暗闇を見据えることでもあり、逆説的に生きていることの力強さを表現し得た作品に辿りつき、
玲さんは、自らの作品を崇高なものへと昇華させることができたのです

人間として、画家としても得ることが多かったバルデペーニャス。人生で最良の日々を過ごした場所。
帰国してから自死するに至るまでは、そのスペイン時代のピークに達することができずにいた、苦しかった画境が偲ばれます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

鴨居玲展の記事は、まだ続きます
今回の第二弾目の記事もかなり長くなってしまいましたので、ここでアップさせて頂きます  長くなってごめんなさい
最後まで目を通して頂いて、本当に有難うございます

なお、東京ステーションギャラリーでの開催は、7月20日(祝)までとなっています(もうちょいで終わります・・・汗)
それ以降は、2015年12月まで、北海道立函館美術館石川県立美術館伊丹市立美術館を巡回予定とのことです


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鴨居玲展(1)

東京ステーションギャラリーに行ってきました
開催されていたのは、没後30年を迎える洋画家、鴨居玲さんの
東京では25年ぶりとなる回顧展です

金沢出身の鴨居玲さん(1928-1985)の57年の生涯で、
心身を削るように描いた油彩画の代表作をはじめ、素描、遺品など
約100点を一堂に展示。
人間の弱さ、醜さ、生きる苦しさといった部分をさらけ出すように描き、
生の痕跡を遺した鴨居玲さんの芸術世界に、強烈に惹きつけられました。

東京ステーションギャラリー
鴨居玲展 パンフ

著名な新聞記者を父親にもち、姉は下着デザイナーとして活躍した鴨居羊子さん。一番上の兄は、レイテ沖で戦死。
三人兄弟の末っ子で、母親ゆずりのエキゾチックな美貌を持つ玲さんを、母親は溺愛していたのだとか

幼い頃から、父親の転勤に伴いソウルや大阪へと転居を繰り返していましたが、終戦後、故郷の金沢へと戻りました。
戦禍を受けなかった金沢は、終戦直後から美術文化運動が盛り上がっていました。
戦後、目標が見つからずにいた玲さんを、父親は親しくしていた洋画家の宮本三郎氏に引き合わせたところ、
宮本氏は、玲さんの素描を見て気に入り、以後宮本氏のもとに出入りすることを得ます。
そして、金沢美術工芸専門学校(現金沢美術工芸大学)に入学。同校の講師宮本三郎氏に本格的に師事するようになります。

しかし、在学中に父親が他界。その半年前には、南方に出征したまま兄の戦死通知がもたらされていました。
戦争と父と兄の死、父親の死後の周囲の手のひらを返すような態度と仕打ち・・・それらは、玲さんの心に死の影を落としました。
この金沢で過ごした時間が、画家鴨居玲の形成に大きく関わっていると云われています

金沢美専を卒業後は、展覧会で受賞を重ねるなど
一定の評価を得ていたものの、
自分の納得のいく製作ができずにいました。
結婚もし、妻とパリでの生活を送りますが、
彼の求めるものはパリ画壇になく、焦燥の日々だったとか
そして、製作に苦しんでいた37歳の時に、
現状を打開するため、南米をめぐる長期の旅にでます。
この旅をきっかけに、自身のスタイルを掴み始めた玲さんの製作は、劇的に蘇っていきます。
そして帰国後、1969年、出品した「静止した刻」が
第12回安井賞を受賞。→ → →
この作品を以って、鴨居玲さんは、
41歳にして画壇に本格デビューします
静止した刻
≪静止した刻≫1968年


しかし、受賞したことによる周囲からの妬み嫉みに嫌気がさし、
1971年、単身でスペインに渡りました。
最初の半年はマドリードにアトリエを構え、
後にラ・マンチャ地方の小都市バルデペーニャスに居を移し、
創作の絶頂期を迎えます。
素朴で明るく人懐っこい地元の人々と交流を深め、
彼は、この地を親しみを込めて「私の村」と呼んでいたようです。
それまで外国を放浪しても、孤独な異邦人だった彼にとって、
人生最良の日々を過ごした場所なのだそう

そのバルデペーニャスで、彼は生涯のモティーフを見出しました。
一日中酒を飲んでいる酔っ払いや、顔に深く皺が刻まれた老人、
戦争で手足を失った傷痍軍人など、社会の底辺にいる彼らを
モティーフにした代表作を次々と生み出したのです
アトリエに大きな鏡を置き、写った自分の姿を
バルデペーニャスの人々の姿に重ね合わせ、
人間の心の弱さや暗さ、心の暗闇や孤独、
すなわち、自分の内面、自画像を描き出したのです。↓ ↓ ↓
鴨居玲 ナザレで
鴨居玲-ナザレで(撮影:富山 栄美子)

私の村の酔っぱらい(A)
≪私の村の酔っぱらい(A)≫1973年
おばあさん(B)
≪おばあさん(B)≫1973年


廃兵
≪廃兵≫1973年
蝿
≪蝿≫1974年


この、「おっかさん」という作品が、面白いです。
酔っ払いの男が、年老いた母親に
襟をつかまれ、叱咤されています。
いい年をして、母親に叱られる息子・・・
といった様子です
三人兄弟の末っ子だった鴨居玲さんを、
母親は溺愛していたといいます。
母親の前では、 甘えん坊だったという玲さん。
そんな親子の関係を彷彿とさせるようです。
そして、ものすごいデッサン力だと思いました。
顔なんて塗りつぶしてるような感じで、
面影くらいしか見えないのに、
この二人の関係が瞬時にして理解できます。
おっかさんが、ちゃんとおっかさんに見えるし、
へこんでる息子の表情が豊かなこと・・・!
デッサンが凄いのか、思い入れが強いのか・・・
多分、どっちも
おっかさん
≪おっかさん≫1973年

このバルデペーニャスの土地で、
玲さんは、最愛の母親の訃報を受けました。
この絵は、その時の悲しみを表した絵なのだとか。→ → →
玲さんのお母さんに対する思いが、感情の起伏そのままに
線となって表れていて、玲さんの悲しみが伝わってきます。

↓ ↓ ↓下画像は、鉄のアイロンに描いたおっかさん・・・。
胸がぎゅっと苦しくなるような絵です

おっかさん アイロン
おっかさん 1977年頃
≪おっかさん≫1977年頃


バルデペーニャスでの生活は、長く続きませんでした。
外国で異邦人だった玲さんが、初めて心を開き打ち解けることのできた
バルデペーニャスの人々との交流は、穏やかで満ち足りたものでした。
それは、一人の旅人としては掛け替えのない時間だったけれども、
画家の彼にとって、製作に駆り立てる意欲を喪失させていくものでした。
親密な人間関係にも、息苦しさを感じていたのだとか・・・

後に、鴨居玲さんは雑誌の対談で、こう語っています。
「周りが落ち着いてくると、だんだんイライラしてくる。
退屈なんじゃないでしょうか(笑)描くという気持ちがなくなってくるんです。
どういう形にせよ、ある傷とかショックがなければ
本当の芸術というのは要らないんじゃないかなと思う。」

生の極限に生きる、孤独で老醜した人々の中に、
自分の世界を築き上げていく根源を見出した鴨居玲さん。
穏やかで親密な人間関係のもとでは、
自己の葛藤や自分の生を刻みつけることが
できなかったのかもしれません

多くの代表作を生み、充実したバルデペーニャスの生活は、
わずか10ヶ月で終わりを告げました。
その後、スペイン国内を転々とし、1974年、パリに移り住みました。
鴨居玲 アトリエにて
鴨居玲-アトリエにて(撮影:富山 栄美子)


パリ時代の作品は、スペイン時代の暗くてずしりと重い作品から和らいで、色彩が豊かになっていきます。
この「蛾」という作品も、目の前を飛ぶ蛾に驚いてるような老人が描かれていて、何とも物哀しい切なさが感じられます
しかし、淡く柔らかい色調によって、詩的な雰囲気が出ていると思います。

また、人物画中心の作品に、「教会」という風景画の新たなモティーフが加わったのも、パリ時代の頃なのだとか 
重々しい教会は、空中に浮かび上がり、地面に十字架の形をした影を落としており、頂上には小さな十字架も見えます。
後に、鴨居玲さんは
「スペインの田舎へ行っている時、一番強く感じたのは
『何故、自分は神を持っていないのか』ということでした」 と語っています。
敬虔なキリスト教徒の多いスペインに滞在した彼にとって、教会や神の存在は心を大きく占めるものだったようです。
しかし、玲さんの描く教会は、どの作品も厚い壁に閉ざされていて、入る人を拒絶しているかのよう・・・。
ついに信仰は持てなかった玲さんにとっては、穏やかに安らぐ教会は入ることができなかった場所なのかもしれません

蛾
≪蛾≫1976年
教会
≪教会≫1976年


パリに滞在していた二年と数ヶ月の間、日本各地とパリ、ニューヨークでも個展が開催され、
一見、画業は順調のように見えたのですが、鴨居玲さんの心の中は満たされず、1977年に帰国、神戸にアトリエを構えます。
神戸は、かつて「静止した刻」が安井賞受賞し、画壇デビューを飾らしめた地でありました

「静止した刻」を生み出す前から、フランス、ブラジル、イタリア、スペインと旅を繰り返し、
人間の内部をさらけ出す表現を模索し続けてきた鴨居玲さん。
神戸では、製作に苦しみながらも、自己を巡る旅の終点ともいえる、数々の自画像の傑作が生み出されました。
しかし、それは、死による決着にひた走るラスト・ランでもあったのです・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まだ途中なのですが、一旦、記事をアップさせて頂きます
長くなりそうだからというよりも(実際、長くなると思うんですけど・・・汗)
鴨居玲さんという芸術家について、私自身がまだ消化しきれていないために、記事作りが思うように進んでいかないのです

芸術家としてしか生きれなかった人のように思え、その破滅型の人生は、調べていくほど気持ちが苦しくなっていくものであり、
私ごときが、とても鴨居玲さんの画業をお伝えできるものではないのですが、それでも展覧会で観て感動したことが
たくさんあり、その一部分でもお伝えできれば・・・と思います

なお、東京ステーションギャラリーでの開催は、7月20日(祝)までとなっています
それ以降は、2015年12月まで、北海道立函館美術館石川県立美術館伊丹市立美術館を巡回予定とのことです


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マグリット展

東京・六本木の国立新美術館にて、
前回記事の「ルーブル美術館展」を観賞した後に、
同館で開催されている「マグリット展」を観に行きました
ルーブルの方は、すごい人混みでしたが、
マグリット展の方は、すでに夕方にさしかかっていたためか、
比較的ゆっくり観賞できました
ルネ・マグリット(1898-1967)は、
ベルギー出身の20世紀を代表する画家です。
ジョルジョ・デ・キリコの影響でシュルレアリスムに開眼し、
やがて、独自の画風を確立していきました。

シュルレアリスムとは、1924年にパリで始まった前衛運動のことです。
フロイトの精神分析を導入し、無意識における心象風景を捉えることに
重きを置いたシュルレアリスムは、1930年代の文化を主導しました。

無意識の中に潜んでいるとされた「現実」を超えた概念、
「超-現実」に触れようとするシュルレアリスムの主張は、
芸術の分野で広く展開していきました。
絵画においても、夢や無意識の世界を描き出そうとするものでした
(簡単に言えば、無意識の世界にこそ芸術的創造性があると
考えられていたのです)
マグリット展パンフ

しかし、マグリットは自身の絵を、「目に見える思考」であり、
世界が本来持っている神秘をイメージとして提示したものである、と表現しました。
この点が、夢や無意識の世界を描き出そうとした他のシュルレアリスムとは異なっています

恋人たち
≪恋人たち≫1928年
野の鍵
≪野の鍵≫1936年
「恋人たち」という有名な作品です
画面上で、二人の男女がキスをしていますが、顔は布で覆われていて、その表情を窺い知ることができません。
観る人によって、色々な解釈や感想が出てきそうな絵です

マグリットは、13歳の時に母親が入水自殺をするという悲劇に見舞われました。
引き上げられた母親の遺体の顔は、濡れたナイトガウンにぺったりと覆われていたのだとか・・・
マグリットが、人物の顔を隠した絵をよく描いているのは、そのイメージに影響しているとも云われていますが、
彼が愛読していた探偵小説の中に、布で覆われた遺体の表現があり、それに影響されたという話もあります。

しかしながら、彼の作品に表れている、日常的体験の中に潜む矛盾や不条理といったイメージは、
幼い頃のこのショッキングな出来事と関係があるのかもしれない・・・とも云われています。

陵辱
≪陵辱≫1934年
ゴルコンダ
≪ゴルコンダ≫1953年

山高帽の紳士が何人も空中に浮かんでいる「ゴルコンダ」という作品 ↑
山高帽の紳士は「普通の目立たない人」の象徴であり、マグリットの自画像ではないか・・・とも云われています。 
ゴルコンダというのは南インドにあった都市で、ダイヤモンドの産地として知られた幻の都のような都市のことなのだそうです
絵の内容とタイトルの関係性、これもまた色々な解釈ができそうです。(グラフィックアートみたいで、私は結構好きです)

実生活のマグリットは、山高帽の紳士の如く、目立つのを嫌う普通の人だったようです。
彼は、画家として名前が売れても、普段はまじめな銀行員として働き、常にスーツにネクタイ姿で絵を描いていたのだとか。
それらしいアトリエもかまえず、台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたといいます。
制作は手際がよく、服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることは決してなかったとも。
待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという規則正しい生活。
銀行員のかたわら、広告デザインなどの仕事もしながら、幼馴染の妻と犬と慎ましく平穏な生活を送りました。

マグリット作品に表れている、彼の中の混沌としたイメージ(調和と不和、矛盾、不条理感)は、
この日常的な偏狭さによってバランスが保たれていたのかもしれない・・・とかって思ってしまいました

光の帝国Ⅱ
≪光の帝国Ⅱ≫1950年
白紙委任状
≪白紙委任状≫1965年

「光の帝国Ⅱ」は、マグリットの代表作品の一つで、昼と夜が同居した作品です。マグリットは、この作品について
「風景は夜を起想させ、空は昼を起想させる。昼と夜のこの共存が、私たちを驚かせ魅惑する力をもつのだと思われる。
この力を、私は詩と呼ぶのだ」と述べています

昼と夜が同居する絵は、とても評判が良かったらしく、マグリットは、同じテーマで絵を何点か制作しています。
展示されていた「光の帝国Ⅱ」は、「光の帝国」シリーズの二作目にあたり、世界的に人気ある作品です。
彼が亡くなった時にも、「光の帝国」のバリエーションと思われる未完の絵が遺されていました。
有名なホラー映画「エクソシスト」にも、この「光の帝国」から着想を得たとされるシーンが登場するのだとか

絵の意味を不明確にするようなタイトルが多いのも、
マグリット作品の特徴ですが、この「大家族」もそうですね。→ →
束の間の青空に見える平和・・・といった意味なのでしょうか?

マグリットの絵画は、
まだまだ面白い作品がたくさんあるのですが、
その殆どが、現実にはありえない不条理な情景が描かれています。
日常的なものや情景を不思議な配置やイメージで結合させたり、
見慣れたものを見慣れないものに変えることで、
観るものを混乱させるかのようです。
が、イメージの異質な結合の中には、詩的な趣きも感じられて、
不条理感満載でありながら魅きつけられるものがあります

マグリットは、
「真に詩的なキャンヴァスは、真昼間の夢である」
という言葉を残していますが、
マグリットらしい素敵な言葉ですよね・・・
大家族
≪大家族≫1963年

「私たちの思考は見えるものと見えないものの両方があることを知覚している。
思考を目に見えるものにするために私は絵を利用する」
というマグリットの言葉も残されていて、パッと聞いただけでは正直よく意味が分からなかったのですが、
意識(見えるもの)と無意識(見えないもの)に言葉を置き換えてみると、いいのかな~?と思います・・・多分

まず、現実に存在する物をモチーフにすることで意識に働きかけ、更に無意識が捉える感銘や真実、無意識が理解できる絵、
そういったものをマグリットは描き出したのではないか・・・と私は思います。
マグリットの絵が、何か心にひっかかり印象に残るのは、
彼の絵を、視覚だけではなく、人間本来の意識の奥に潜むものが感受しているから・・・??とかって思ったりしました

いずれにしても、
現実をモチーフにして淡々と描いた中に、マグリットの強烈なイメージの世界が広がっていて非常に面白かったです

国立新美術館では、2015年6月29日(日)までの開催となります。
その後は、7月11日(土)から10月12日(月・祝)のまでの期間、京都市美術館にも巡回予定とのことです


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ルーヴル美術館展

東京・六本木にある国立新美術館に行ってきました
「ルーヴル美術館展」が終わりに近づいてたので、
最終日前日に行ったところ、ものすごい人・・・
チケット購入してから、観賞できるまでに結局1時間半くらいかかりました。
「ルーブル美術館展」は、ルーブル美術館の所蔵品から、
厳選された風俗画(日常生活を題材として描かれた絵画)
約80展が集結した展覧会です。
16世紀初頭から19世紀半ばまで、約3世紀半にわたりヨーロッパで、
各国・各時代に活躍した画家たちの珠玉の名画が集結
風俗画を通じて、当時の社会の状況や世相、人々の生活習慣などを
事細かに知ることができ、歴史的にも意義深い風俗画展です。

国立新美術館1
ルーブル美術館展パンフ

たくさんの名画が展示されていましたが、割愛しまくって一部分の作品をご紹介させて頂きます

まずは、ベルギーのアントワープで活躍した画家
クエンティン・マサイス(1466-1530)の「両替商とその妻」→ → →

両替商の夫が、天秤に金貨をのせて重さを測っているのを、
横で、聖母子の絵の描かれた時祷書(じとうしょ)を読んでいた妻が、
ふと手を止めて夫の手先を見つめています。

両替商は、16世紀当時、商業都市として繁栄していたアントワープに
台頭しつつあった職業だったのだそう。
この絵の最初の額縁には、作者によって
「汝ら秤においても升においても不義をなすべからず」(レビ記19章)
という聖句が刻まれていたそうで、
当時、新しい職業であった銀行家や両替商に対する倫理観を戒告した絵だと言われています。
欲深く金を稼ごうとする夫に、信心に根差した正しい商いをするように
目を配る妻・・・という構図なのでしょうか
両替商とその妻
クェンティン・マセイス≪両替商とその妻≫1514年


イタリアの画家ティツィアーノ・ヴェッチェリオ(1488・90-1576)の
「鏡の前の女」→ → →

16世紀当時、ヴェネツィアでは美しく官能的な女性を描いた
美人画が流行していました
当時は、金色に輝く豊かな髪や大理石のように白い肌などが
女性の美の条件として、詩などで盛んに歌われました。
美人画の流行は、詩や彫刻など異なる芸術分野の優劣を競う
比較論争とも結びついており、
「二次元の絵画に比べて、人物を後ろからも見られる三次元の彫刻が優位である」という意見に対して、
ティツィアーノは、絵画によって理想の女性美を示そうと描いたのが
この作品なのだとか。
後ろ姿も見えるように「鏡を使った画」を描いて、
詩や彫刻にはない絵画の優位を主張する工夫もなされています
鏡の前の女
ティツィアーノ・ヴェッチェリオ≪鏡の前の女≫
1515年頃

フランドル地方出身で、イタリアで活躍した
ニコラ・レニエ(1591-1667)の「女占い師」→ → →

二人の褐色の肌の「ロマ人」の女が結託しており、
そのうちの若い方が「女占い師」として、
色の白い娘の手相を読むふりをしています。
そして、老婆の方は娘のポケットから
財布を抜き取ろうとしています。
女占い師と老婆は結託した泥棒仲間なのです
さらに占い師の背後にいる男が、
占い師の上前をはねるように鶏を盗んでいます。
この絵には、占い師を信ずるとすべてを失ってしまうという教訓的意味が含まれている他、
騙されることへの注意、騙すものもまた騙されるという、
二重の警告が描かれているとも云われています。
当時、占い師といえば詐欺の代名詞だったようで、
このような詐欺の警鐘を鳴らす作品が
たくさん描かれたのだそうです
女占い師
ニコラ・レニエ≪女占い師≫1626年頃


「チェス盤のある静物」は、17世紀のフランスの画家リュバン・ボージャン(1612-1663)の代表的な作品。
一見、色んなものを集めた静物画に見えるのですが、人間の五感識を表したものなのだそうです。
手前にあるリュートと楽譜は聴覚。 トランプ、巾着袋、チェス盤は触覚。 パンとワインは味覚。 花は臭覚。
そして鏡は視覚を象徴しているのだとか

しかし一方では、宗教画の役割を果たしている静物画とも言われており、
リュートや楽譜は音楽で、恋や官能の象徴。
巾着は、お金を入れる袋。
トランプやチェス盤などの賭け事は、
キリスト教に対する堕落。
ワインとパンはイエス・キリストの象徴(血と肉)。
花はこの世のはかなさを表し、
何も写っていない鏡は、はかない「生」の後に
待ち受ける「死」を表している・・・
という説もあるようです。
キリスト教の敬虔な教え(生)と
様々な誘惑に満ちた世界(死)と
二つの世界を暗示させているかのようで、
静物画だけど、風俗画でもあり宗教画ともいえるような
不思議な作品です
チェス盤のある静物
リュバン・ボージャン≪チェス盤のある静物≫17世紀前半

フランスの画家ジャン=バティスト・クルーズ(1725-1805)の
「割れた水瓶」→ → →

少女の着ている純白のドレスは乱れており、
手には、割れた水瓶としおれた野薔薇を持っています。
白いドレスは「純潔」を意味し、水瓶は子宮のシンボルであることから
この絵は、処女性の喪失を表しているといわれています。
物語性の強い感傷的な風俗画ですが、
贅沢で怠惰な貴族の生活を表しているともいわれ、
市民階級に向けた、軽率さへの注意を促す教訓的絵画
とも云われています。
この絵画は、ルイ15世の寵妃となったたデュ・バリー伯爵夫人が、
フランス革命で斬首刑に処されるまで所有していたことから、
若い時の彼女がこの「割れた水瓶」のモデルだったという説も
あるのだとか
割れた水瓶
ジャン=ベテイスト・クルーズ≪割れた水瓶≫1771年

17世紀スペイン・バロック絵画の巨匠、
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617-1682)の
「物乞いの少年(蚤をとる少年)」→ → →

廃屋らしき建物の片隅で、無心に蚤を取る少年の姿が描かれてます。
足許には、食べ残した海老やリンゴが転がっていて、
水がたっぷり入っていそうな水瓶も置いてあることから、
貧しくとも平和な日々を過ごしている少年の生活が感じられます。
そして、窓から差し込む暖かな光が、少年を柔らかく包んでいるようで、
みずぼらしい衣服の割りに、悲壮な感じはしません
ムリーリョは、聖母や子供達をテーマに、作品を数多く描きましたが、
とりわけ、下層社会の子供を暖かい眼差しで、描き出しました。
少年を照らす光は、不幸な境遇を演出するためのものでなく、
神のあわれみと慈悲があってほしいという、
彼の温かみのある願いから描かれたものであると云われています。
物乞いの少年(蚤をとる少年)
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
≪物乞いの少年(蚤をとる少年)≫1647-48年頃

ムリーリョの子供たちに対する温かい眼差しは、彼の幼いころの経験が影響しているといわれています。
1617年にスペイン南部のセヴィリアに生まれたムリーリョは、9歳の時に両親を亡くし、一時孤児となりました。
4年後に親戚の家に引きとられますが、当時の孤独な生活が、彼の精神形成に大きく影響を及ぼしたとも云われています。
1646年、28歳の時に、画家としてデビューします。前年には、結婚し子宝にも恵まれましたが、
1649年、セヴィリアでペストが大流行し、妻と子供を失い、再び孤独生活を強いられます。
このペストで、多くの人が亡くなり孤児たちが街にあふれていたそうです。
ムリョーリョは、過去の自分や孤独な経験と重ね合わせて、孤児たちを温かい眼差しで見つめていたに違いありません

最後に、今回のルーブル美術館展の目玉ともいえる
17世紀オランダを代表する画家フェルメール(1632-1675)の
「天文学者」 → → →

ルーヴル美術館に所蔵されるフェルメール作品は、
2009年に来日を果たした「レースを編む女」と
今回が初来日の「天文学者」の2点しかないのだとか。
そのため、「天文学者」はルーヴルを離れることが殆どない
作品の一つなのだそうです。
絵の中の天文学者が、着物みたいな衣装を身につけていますが、
当時、実際にオランダでは、着物を模した「日本の上着」と呼ばれる
ガウンが知識人や上流階級の間で流行していました。
フェルメールがこの作品を描いた1668年頃の日本では、
徳川幕府の鎖国令によって外国との貿易を禁止されていましたが、
唯一、長崎の出島では、オランダ商船との交易が盛んだったため、
その時に着物が海を渡ったのではないかと云われています。
天文学者
ヨハネス・フェルメール≪天文学者≫1668年

この「天文学者」は、第二次世界大戦中に、ヒトラー率いるナチス・ドイツの手に渡るという数奇な運命をたどった作品なのだとか。

当時、若い頃画家への夢を絶たれたヒトラーは、故郷にヨーロッパ美術を集めた壮大な美術館を建造することを夢見ていました。
そして、1940年のフランス侵攻の際に、ナチスはユダヤ系フランス人の銀行家、エドゥアール・ド・ロートシルトが所有していた
「天文学者」を、力ずくで押収しました
このため「天文学者」の裏面には、「第三帝国所有」を表す鉤十字の印が、黒いインクで刻印されているのだとか。
第二次世界大戦終結後に「天文学者」はロートシルト家に返還され、相続税の一部としてフランス政府の持ち主となり、
ルーヴル美術館の所蔵となったのだそうです。
歴史の戦火の中をかいくぐってきた「天文学者」を、直接目にできた経験は本当に貴重なものでした・・・
ただ、人が多くてゆっくり観賞できなかったのが残念・・・。多少無理しても平日に時間をとって行った方が良かったかも・・・

国立新美術館の展示は、6月1日で終了しましたが、
次回は、京都市美術館にて、2015年6月16日(火)から9月27日(日)まで巡回展が開催されるとのことです


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BEST of the BEST展 (2)

前回に引き続き、ブリジストン美術館「ベスト・オブ・ザ・ベスト展」の記事です。 (前回の記事はコチラ
前回は、西洋コレクション(の一部)をご紹介させて頂きましたが、今回は、日本の近代洋画のご紹介です

株式会社ブリジストンを創立した石橋正二郎氏ですが、本格的に絵画収集を始めるきっかけとなったのは、
福岡県久留米市で、小学校時代の図画教師だった洋画家・坂本繁次郎との再会でした。
齢28歳にて夭折した同郷の画家・青木繁の作品を惜しんだ坂本繁次郎は、
石橋氏に、青木繁の作品を集めて美術館を作ってほしいと語ったのだとか。
その言葉に感じ入った石橋氏は、その後、青木繁を中心として日本近代洋画の収集を始められたのだそうです

青木繁(1882-1911)の代表作≪海の幸≫
石橋氏は、作品を購入したら、好きな絵画ほど自宅に飾って楽しまれていたのだとか。
食堂の欄間には、この≪海の幸≫が架けられていて、毎朝、眺めながら朝食をとられていたのだそうですよ

海の幸1
青木繁≪海の幸≫1904年 石橋美術館所蔵  重要文化財

1904年(明治37)年の夏、東京美術学校を卒業した青木繁は、
画友の坂本繁二郎、森田恒友、そして恋人の福田たねと、制作旅行のため房州(千葉県)布良にやって来ました
布良(めら)に約2か月近く滞在し、数多くの海の景色を描きましたが、
のちに青木繁の一大傑作となる≪海の幸≫も、この布良海岸にて制作されました

裸の漁夫たちが大きなフカ(サメ)を抱えて、海岸に戻ってくるという、野趣にとんだ、迫力ある≪海の幸≫。
この絵は、その年の秋に白馬会展に出品され、青木繁の名を日本美術史上不動のものにします。
しかし、それ以降の青木繁の画家としての人生は、決して順調なものではなく、
最期は放浪生活の末に、28歳という短い生涯を終えました。
≪海の幸≫は、短い人生の中で、精神的にも芸術的感性においても、最も意気軒昂だった時に描かれた作品だともいえます。
運命の恋人と共に、絵筆一本で立とうとしている出発の時であった、一夏の青春と才能の煌きといったものが感じられます。

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また、石橋正二郎氏は、
日本近代洋画の巨匠、藤島武二(1867-1943)とも懇意になり、
藤島武二が保管していたローマ留学時代の作品15点を
一括して譲り受けたのだそうです。
当初から、美術館の創設を考えていた石橋氏に、
老画家から愛蔵品が託されたのでした

中でも、藤島武二の最高傑作の一つとされる≪黒扇≫ → → → →
ローマ留学時代に肖像画を得意とするカロリュス・デュランに師事。
その時に、描かれた婦人像の名作として知られています。
一度は、石橋氏に託したものの、
3日で「あの絵がないと寂しくて寝られないから」と
返してもらったという逸話が残っているのだとか
この絵に対する藤島武二の強い思い入れを感じます。
しかし、最晩年になって、石橋氏の強い懇望により、
ブリヂストン美術館に譲渡したということです
黒扇1
藤島武二≪黒扇≫1908-09年 重要文化財

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次は、黒田清輝≪ブレハの少女≫1891年→ →
日本洋画の父ともいわれている黒田清輝(1866-1924)ですが、
18歳の時に政治家を目指し、渡仏した先で
印象派の明るい絵画に出会い、魅了されます。
彼の最初の師は、ラファエル・コラン。
渡仏の2年後に、政治家を断念し画家になる決心をするのも、
コランの元で絵を描き始めたのがきっかけなのだとか。

1891年、23歳の時に、友人の画家・久米桂一郎と、
パリを発ってブルターニュ半島のブレハ島に遊びに行き、
景色や交流を楽しみながら一ヶ月滞在します。
その間に、現地の子どもをモデルに雇って人物画を描きました。
それが≪ブレハの少女≫です。
少女の燃え立つような赤毛、狂気をはらんだ風貌、
左右で大きさの異なる靴、大きく欠けた碗。
彼が好んだ穏やかな画風とは打って変わり、
筆遣いが荒々しく、画面も殺伐としています。
旅先での開放的な空気が、彼の内面にある激しい情熱を引き出した・・・・・
といわれています
ブレハの少女
黒田清輝≪ブレハの少女≫1891年

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次は、安井曾太郎≪F婦人像≫ → → →
安井曾太郎(やすいそうたろう1888-1955)は、
昭和期を代表する日本の画家です。

安井曾太郎は、19歳の時に渡仏。7年間のフランス留学の間に、
セザンヌ回顧展に遭遇して、セザンヌの絵に傾倒していきます。
第一次世界大戦の勃発と、体調不調のために帰国しますが、
セザンヌの影響からなかなか抜け出せず、
十数年もの間、長いスランプに陥ります

しかし、得意なデッサン力を生かした丹念な写生を下敷きに、
遂に、「安井様式」ともいえる独自のリアリズムを確立。
「安井様式」とは、
「対象を写実的に写したあと、形や色を単純化し、
さらに対象から受けた実感を、より明確に表現するため
強調やデフォルメを加える」
といったもので、
「デッサンの神様」とまで云われていたほど
写生に評価が高かった安井曾太郎ですが、
完成した絵は、「まるで写真のような」と
云われるようなものではありませんでした。

そんな「安井様式」と呼ばれる、
写実と非写実の中間的な独自のリアリズムによって、
多くの画家たちに影響を与え、静物画や肖像画において
多くの傑作を残すこととなったのです。

≪F夫人像≫は、美術評論家で収集家の福島繁太郎氏の
夫人である慶子さんを描いたものなのだとか。
完成後、大胆にデフォルメされているにもかかわらず、
福島夫妻はこの出来映えを気に入り、
以後、安井曾太郎を懇意にしたそうです

肖像画を依頼した夫人は、わざと細かい縞の入った、
描くのが難しそうな『安井ごろしの服』を着て
モデルになったのだとか
描かれた夫人の顔には、そんな夫人の性格も
きちんと投影されてるような・・・笑
F婦人像
安井曾太郎≪F婦人像≫1939年
薔薇
安井曾太郎≪薔薇≫1932年

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次は、佐伯祐三≪テラスの広告≫→ →

佐伯祐三(1898-1928)は、パリに恋焦がれ、
パリの下町を描き続けた画家として知られています。
1924年、ずっと恋焦がれていたパリに、
妻子と共に移り住むことになりました。そこで、
パリの路地裏を描くユトリロの作品に触発され、
製作に没頭、独自の世界を作り上げていきました。
パリの町並み全てが、彼にとって憧れのモチーフであり、愛する異国の下町を描き続けたのです

翌年、体調を崩し帰国するも、情熱を捨て切れず、
病身(肺結核)をおして、1927年に再び一家で渡仏。
以前にも増して、製作に没頭していきます。
≪テラスの広告≫は、この頃に描かれたもので、
当時、佐伯祐三のアトリエからほど近い、
パリ14区にあったカフェを描いた作品なのだとか。
テラスの広告
佐伯祐三≪テラスの広告≫1927年

≪テラスの広告≫は、佐伯作品の中でも、最高傑作と云われている作品です。
愛するパリの下町に佇む、佐伯祐三自身の憧れ(心象風景)が描かれているかのようにも感じます・・・
この頃の作品には、踊るような筆致で、黒い文字を描かれた作品が多く見られ、
これは、帰国していた僅かな期間に感得したと思われる、日本の書からの影響ではないかと云われています。

そして、1928年、パリを再訪して一年を過ぎた時、恐れていた結核により、大量に吐血します。
体が衰弱していくと同時に、精神も蝕まれていき、最期には、精神病院の一室で、30歳という短い生涯を閉じました。
佐伯祐三は、若い頃に父親を失い、弟も肺結核で亡くしているそうで、自らの生涯に対しても、死そのものへの
恐怖を持っていたといいます。自身も遺伝性の肺結核を持ってるかもしれない、という恐怖があったかもしれません。
常に死と隣り合わせだったからこそ、全身全霊で描画に打ち込んできたのかもしれない・・・
短くも、芸術家として一途に燃え上がった人生。

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最期は、藤田嗣治(ふじたつぐはる)の二点の絵。
上画像が、≪ドルドーニュの家≫
下画像が、≪猫のいる静物≫

藤田嗣治(1886-1968)別名レオナール・フジタは、モディリアーニ、シャガール等と並んで
「エコール・ド・パリ」を代表する画家の一人であり、フランスでは巨匠の一人とみなされています

1913年に、26歳でパリに渡った藤田嗣治は、
フランスに根を張る覚悟で、
西洋の画家とも対等に渡り合い、
積極的に創作活動に励みました。
結果、美術史に名を残す成功を収めました。
日本では認められなかった才能が、パリで開花。
私生活では、奇抜な扮装で舞踏会に出席し、
目立つおかっぱ頭やヒゲも手伝って
社交界の花形ともなりました。
しかし、パーティでどれほど浮かれていても、
創作活動においては誰よりも熱心で
ストイックだったと云われています

当時、活躍していたピカソをして天才といわしめた藤田嗣治の画風は、「和と洋の融合」でした。
日本画の面相筆で細い輪郭線を描く。
透明感のある下地を作り、
浮世絵のように下地を残して、肌として見せる。
それは、「乳白色の下地」と呼ばれ、
藤田嗣治の代名詞にもなったのです
(藤田嗣治は、下地の作り方を隠していましたが、
研究でベビーパウダーを使っていたことが判明。
当時、この下地が、パリの人を魅了し、
ピカソが彼の個展に来た時、
3時間近くも作品を見ていったのだとか!)

ドルドーニュの家
藤田嗣治≪ドルドーニュの家≫1940年
猫のいる静物
藤田嗣治≪猫のいる静物≫1939-40年

1929年、世界恐慌を機に、16年ぶりに一時帰国。
日中戦争、次いで太平洋戦争が始まると、軍部の要請で戦線を取材し、戦争画の製作に没頭します。
藤田嗣治は、従軍画家の仕事に従事することによって、少しでも祖国に貢献したいと願っていたのだとか。
そして、それはパリ帰りの彼にとって、日本人としての自分を受け入れてくれる場所であったのかもしれない・・・とも思います。

やがて、戦争画家としての主導的立場となっていき、各国の戦地に派遣されます。
そして終戦後に、一転して手のひらを返されたかのように、日本画壇から戦争協力者として批判を浴び、
その責任をとる形で、彼は日本を離れることになります。
彼が残した手記には、「『国のために戦う一兵卒と同じ心境で書いた』のになぜ非難されなければならないか」
と、当時の想いが述べられています・・・
この当時の批判には、国際舞台での成功を収めた藤田嗣治に対する、日本画壇の嫉妬が根底にあったようです。
その後も、日本では終始、藤田作品が正当に評価されることはなかったのだとか・・・

そして、藤田嗣治は10年ぶりに渡仏して、仏国籍を取り(日本国籍は抹消)、カトリックに改宗。
名前をレオナール・フジタと改めた彼は、二度と日本の地を踏むことはありませんでした。
晩年は、世間と交流を絶ち、空想上の子供の絵と宗教画に没入したといいます。

藤田嗣治が残した手記には、
「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は世界に日本人として生きたいと願う。
それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う」
という言葉が残されています。
パリで、異邦人としてではなく、誰よりも日本人として生涯を賭けていきたかった彼の魂の叫びが聞こえてきそうです。

藤田嗣治のことを調べていくと、ポーラ美術館(神奈川)にも彼の作品がたくさん収蔵されているみたいで、
そちらもまた、素晴らしいコレクションばかりです・・・
(ご興味のある方はクリック → → →ポーラ美術館HP

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「ベスト・オブ・ザ・ベスト展」は、本当に見応えありました
とても、個人のコレクションから出発した私立美術館とは思えないほど、
質の高い作品がたくさん観れて良かったです。
そして、意外にも敷居が高くないというか気さくな雰囲気なのもグッド
観賞後に寄ったミュージアムショップでは、
ポストカードが一枚50円で売ってたので、つい大量買いしてしまった
50円って安い!大体、どこの美術館行っても100円以上しますよね?
(休館前だったからかな?)
入館料も、一般800円と、かなりお安いと思います
(私は、100円引きクーポン持参で700円でしたっ嬉)

ところで、最後に・・・エドウァール・マネ≪自画像≫1878-79年→ → →
クロード・モネと同様、印象派の画家として有名なマネですが、
マネは40代の頃に自画像を二枚だけ描いているそうで、
そのうちの一枚が、今回、展示されていました。

もう一枚は、2010年にロンドンのサザビーズ(オークション)で、
2240万ポンド(約30億円)で落札されたのだとか。
しかも、それは上半身だけの自画像だったそうです 
すると・・・下世話な話、ブリジストンの≪自画像≫は、
一体、どれくらいの価値があるんだろう・・・?!って思っちゃいますよね笑
そんな価値のある芸術品が、都心の一等地にある美術館で
お安い入館料で観賞できるのですから、スゴイと思います
自画像
エドウァール・マネ≪自画像≫1878-79年

バブル期などに、多くの資産家が、割のいい運用資産として美術品などに夢中になっていたことがありました。
石橋コレクションは、それとは全く異なるもので、恩師の頼みから青木繁の作品を収集し始めたことに端を発しており、
更に、美術館を創設した石橋正二郎氏が 「世の人々の楽しみと幸福の為に」「名品は個人で秘蔵すべきではない」と、
文化的公共性に対し優れた意識を持った指導者の方であったこと・・・
そのことも併せて深く感動した「ベスト・オブ・ザ・ベスト展」でした

ブリジストン美術館の再開、本当に楽しみです 前回の記事と同様、今回も長くなってしまいました・・・
訪問して下さった皆様、最後まで読んで頂いて、本当に有難うございます・・・


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BEST of the BEST展 (1)

ブリジストン美術館に行ってきました。開催されていたのは、「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展です
ブリジストン美術館とは、株式会社ブリヂストンの創業者・石橋正二郎さんの個人コレクションを公開するため、
1952年に開館した美術館です。
開館63年という歴史を持つ美術館ですが、ビル新築工事のために5月18日より数年に渡り休館するそう。
(再開は「東京オリンピックの前には」とのことです・・・)
休館する前に是非に!!と駆けこみ的に行ってみたところ、同じ考えの人が多かったみたいで、めっちゃ混雑してました
チケットを買うのに、外にまで行列ができるとか・・・汗

ブリジストン美術館1ブリジストン美術館2


石橋正二郎さんは戦前、日本近代洋画を収集していましたが、
戦後「日本の洋画家達の作品と、彼らがお手本にしたフランスの画家達の作品を一緒に並べたら、光彩を放つだろう」
との想いから、フランスの西洋美術を収集しはじめました。
「明るい絵が好き」で、とりわけ印象派を好み、質の高いコレクションを作りあげていきました

1950年(昭和25年)に初渡米した際、都心のビルにあったニューヨーク近代美術館に感銘を受け、
帰国後、自らのコレクションを一般公開することを決意し、都心の一等地にブリジストン美術館を設立。
当時、フランス美術を常設で見られる都内唯一の美術館だったそう。
欧米への渡航が困難な時代に、一般の人々が西洋美術に触れる場となり、若い画学生の学びの場ともなりました

ブリヂストン美術館の核となるコレクションは、19世紀以降のパリを中心に展開されたフランス美術と、
(マネ、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、マティス、ピカソなど、日本で人気の高い印象派など)
フランス美術から影響を受けて発展していった日本近代洋画など。
(黒田清輝、青木繁、坂本繁次郎、藤島武二、安井曾太郎、藤田嗣治など)

1962年には、石橋コレクション50点がフランスに渡り、パリ国立近代美術館で展示され、
「印象派のコレクションとしては、世界十指の一つ」と好評を得て、石橋正二郎さんの存在はフランスメディアの注目を集めました。

そして、ブリジストン美術館設立後、「美術館を私物化することなく、広く社会と共有したい」という思いから、
財団法人石橋財団を設立。コレクションの大半を財団に寄付して、美術館の運営と管理を委ねました。
同時に、石橋美術館も創設して、郷里である福岡県久留米市に寄贈。

現在も、石橋コレクションを軸として、60年以上にわたり継続して作品収集を行っているのだそうで、
石橋財団が持っているコレクション数は、現在2585点 
(そのうち、1625点が東京のブリジストン美術館に、960点が福岡の石橋美術館で管理されています)
これらのうちから、最高で最高の160点を選び抜き、一挙公開したのが「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展なのです

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そんな優れた展示作品の中から一部分ですが、紹介させて頂きます!・・・まずは、クロード・モネの≪睡蓮≫
日本でも人気の高い連作の1枚です。睡蓮の形も定かではない抽象画のような絵ですが、配色も美しいですし、
穏やかな自然の中で、自分が池の前に佇んでいるかのような心地よさを感じますね・・・

モネは、少年の頃から日本が好きで、
浮世絵の収集家でもありました。その日本趣味は、
自宅の庭を日本庭園風に造りあげるほどで、
しだれ柳を植え、池を造り太鼓橋を架けました。
≪睡蓮≫は、後半生30年にわたって取り組み、
作風をどんどん変えていきましたが、
初期の頃の『睡蓮』には、
その太鼓橋が描かれていたりします。
(展示作品は、描き始めて4、5年くらいのもの)
モネの作品には、浮世絵の題材や構図から
インスピレーションを受けているものが多く、
葛飾北斎が連作作品を多く制作したように、
モネもまた多くの連作を制作したということから、
浮世絵から、影響を強く受けていた・・・
ということが分かります
睡蓮
クロード・モネ≪睡蓮≫1903年

モネが描いたイメージは、現代の私たちにとって、とても優しく馴染みやすいものですが、
モネが作品を発表した頃のヨーロッパでは、絵画の世界には階級制度があり、モネの絵は「印象を描いたにすぎない」
と酷評される時代でもあったのです。当時は、歴史的に意義の深い場面などを写実的に仕上げる絵画が尊重されていたため、
モネの作品は、近代的でもあり、また挑戦的でもあったのです

印象主義の先導者でもあったモネ。先導者であったがゆえの製作の苦労が偲ばれる言葉も残されています。

夜の間、私は自分が理解しようとしているものに絶えず悩まされる。毎朝、疲労を断ち切り、起き上がる。
夜明けの到来は私に勇気を与えてくれるが、アトリエに足を踏み入れるや、すぐに不安が蘇る・・・・・・。
絵を描くことはかくもむずかしく、苦しい。昨晩は、秋の落葉と一緒に6枚のキャンヴァスを燃やした。


モネは、「光の画家」と呼ばれており、捉えどころのない特性を持つ”光”を表現することを、一生涯模索し続けました。
彼は、「連作」という形で、風景などの同じ主題を、異なる光のもとで何十回も描き続けたのです

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次に、同じくモネの≪黄昏、ヴェネツィア≫という
色彩の美しい作品 → → →

1908年、68歳だったモネは、知人の誘いで
妻アリスとともにヴェネツィアを訪れました。
この旅行は、健康状態と視力の減退に悩まされていた当時のモネにとって、静養が目的でした。

が、多くの画家たちを魅了してきたヴェネツィアの
美しさに魅了され、ホテルに長期滞在して
約3ヶ月間制作に没頭することに・・・。
1912年には、ヴェネツィア作品だけの展覧会を開き、大成功をおさめます
黄昏・ヴェネツィア
クロード・モネ≪黄昏、ヴェネツィア≫1908年

夕日に染まる海に浮かんでいるのはサン・マルコ運河に浮かぶサン・ジョルジョ・マジョーレ教会。
運河が輝き、中世の建物を照らす光に、モネは心を掻き立てられ、それはモネが書いた手紙にも残されています。

私はますますヴェネツィアに夢中になっていきます…この独特の光と別れなければならない時が近づくにつれ、
悲しさがつのります。ほんとうに美しいのです

-ギュスターヴ・ジェフロワ宛の手紙(1908年12月7日付)

モネは、美しい光景を見て、もしかしたら生きる気力、創作の情熱といったものを取り戻したのかもしれない・・・と、
私は勝手に想像しています

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次は、ルノワールの印象主義時代を代表する作品の一つである≪すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢≫→ → →
ミュージアムショップでのポストカードの中で、
一番、人気なのだそうです

この愛らしい女の子は、当時、老舗出版社のオーナーで、
社交界でも注目を浴びていたジョルジュ・シャルパンティエの
愛娘(4歳)。

当時30代半ばだったルノワールは、売れない絵描きでしたが、
シャルパンティエ夫人から、娘の肖像画を依頼されます。
当時、夫人のサロンは、ブルジョアの知的で優雅な社交場として知られていました。夫人は、この作品を非常に気に入り、
以後、上流サロンに出入りするようになったルノワールには
有力者からの注文が相次ぐようになるのです。

女の子の可愛いドレス、赤い珊瑚のネックレス、
重厚な絨毯や椅子などから、当時の裕福層の生活が窺えます。
このような裕福なパトロンに恵まれたことは、
ルノワールの人生に於いて大きかったことだと思います
すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢
ピエール=オーギュスト・ルノワール
≪すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢≫1876年

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次は、ギュスターヴ・カイユボットの
≪ピアノを弾く若い男≫→ → →
2011年に、ブリジストン美術館が購入。
カイユボットの絵は、日本にはそれまで
他美術館に1点が所蔵されるのみだったので、
大ニュースにもなったのだとか。

裕福な繊維業者の子息であった彼は、
画家であると同時に、友人の印象派の
画家たち(モネ、ルノワール、ドガ等)の
作品を買って生活を支えたパトロンと
しても知られています。この絵のモデルは、
仲の良かった弟マルシャルで、
パリ中心部の豪華な自宅の中を描いたもの。
ピアノは当時最新式だったエラール社製。
近代都市パリに生きたブルジョワジーの
生活が伺えますね
ピアノを弾く若い男
ギュスターヴ・カイユボット≪ピアノを弾く若い男≫1876年

カイユボットがフランス政府に遺贈したコレクションは、現在は、オルセー美術館の核になっているのだとか。
しかし、遺贈リストの中に自身の作品をあまり含めなかったので、所蔵されている彼自身の絵はわずか数点。
その理由として、裕福だったので絵を売る必要が無かったことがあるようです
彼の死後も、裕福であった遺族が個人蔵として所有し、世に出回ることもなかったので、
それがまた彼の評価を遅らせることにもなってしまいました。
印象派を支えた擁護者として有名なカイユボットですが、
近年では画家としての活動に関心が集まり、作品の再評価が急速に進んでいます
≪ピアノを弾く若い男≫は、彼が初めて参加した、印象派展出品作であるのもこの作品をますます重要な物にしています。

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次は、ロートレックの ≪サーカスの舞台裏≫→ →
モノトーン調の絵ですが、油彩画で、
ロートレックが23歳の頃の作品だそうです。
画家になることを父親から反対されていたため、
当初、この絵に、自分の名前を逆さ読みにした
「トレクロー Treclau」と表記していたのだとか。
でも、展覧会への出品を前に、彼は署名を本名の
「ロートレックLautrec」に書き換えたそうです。
この絵はロートレックが父親の反対を押し切り
画家としての一歩を踏み出した記念的作品・・・
ともいえるかもしれません。
この作品に描かれているのは、サーカスの舞台裏。
華やかな表舞台とは対照的な薄暗い舞台裏が
モノトーンの画面で表現されています
サーカスの舞台裏
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック≪サーカスの舞台裏≫1887年頃

貴族の家に生まれた彼は、子供の頃に繰り返し事故に遭い、両足を骨折しました。
それにより下半身の成長がストップしてしまった姿は、大人になっても子どものようだったとか・・・。
ロートレックは、自由奔放な生き方をした芸術家の典型で、パリのカフェや娼館などに入り浸り、
歓楽の世界に生きる人々の華やかな姿や悲哀を描き続けました。
娼婦や酔っ払いの姿を、何らかの感情や批判などが入ることなく、ありのままを表現しました。
それは、ロートレックが彼らを愛し、理解し、一体となっていたからだとも言われています

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次は、パブロ・ピカソの≪腕を組んで座るサルタンバンク≫→ →
ピカソは、技法と様式の独創性を幅広く展開していった人ですが、
一時期、「新古典主義の時代」という写実的で彫刻的な絵画を
描いていた時代があります。
≪腕を組んで座るサルタンバンク≫は、その代表作です。

サルタンバンクとは最下層の芸人のこと。
定住して演技場に出ることはなく、縁日などを渡り歩き、
即興の芸を見せます。
ピカソは当時、道化師たちや芸人たちとも親しかったようで
そんな彼らを多く描いています。
この作品は、そういう社会に生きる人たちへの
ピカソの共感から生み出されたというよりも
自分自身を、道化師たちや芸人に重ね合わせて
描いたのかもしれません。

画面左上に女性像が塗り潰された痕跡がありますが、
それもこの絵に余韻を与えているかのよう・・・
科学的な調査によると(赤外線カメラ)
サルタンバンクに寄り添うように若い女性の姿が
描かれていたようです。恋人同士なのだろうか・・・
腕を組んで座るサルタンバンク
パブロ・ピカソ≪腕を組んで座るサルタンバンク≫1923年

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続いて、ピカソ≪女の顔≫→ → →
≪腕を組んで座るサルタンバンク≫と同様、古典主義時代の作品です。
ピカソは生涯の中で、何度も大きく画風を展開していった人ですが、
その画風と同じように、付き合う恋人も次から次へと変えたことで知られ、
彼女たちはときにピカソの絵画にも登場します。

≪女の顔≫のモデルは、
ピカソの最初の妻、オルガ・コクローヴァと云われています。
オルガは、ロシア将軍の娘で、貴族の血を引くバレエダンサーでした。
この絵は、妻オルガと南仏のアンティーヴ岬で過ごした時に描いた作品。
画面をよく見ると、表面がざらついているのですが、
アンティーヴの海水浴場の砂を、絵具に混ぜ合わせたのだとか
この時、ピカソはアメリカ人画家ジェラルド・マーフィーとその妻サラと
会います。この夫妻は、ピカソと家族ぐるみの親交があったようで、
サラの整った美貌にピカソは大いに心惹かれ、
この年に、彼女の肖像画を集中的に描いているのです。
なので、≪女の顔≫は、妻オルガではなくサラがモデルなのではないか・・・
という説もあります。
女の顔
パブロ・ピカソ≪女の顔≫1923年

ピカソは、陽気で精力的な人だったらしく、多くの女性と関係を持ったことで知られています
が、結果的にですが、必ずしも幸せだったとは云い難いようですね・・・
創作へのエネルギーが、そのまま女性への情熱ともなったのでしょうか?

オルガは、ピカソと結婚する時、夫の家に挨拶に出向きました。すると、姑になるピカソの母から次のように言われたのだとか。
 「どんな女性でも、私の息子パブロと一緒では幸せになれないよ」
さすがに母は、よく分かってた笑

ところで、そんなピカソ様が残した名言集というのがあって、これが結構イイのです笑 
(ご興味のある方は是非 ピカソ名言集

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そして、最後にギュスターブ・モロー≪化粧≫→ → →
ピカソ様を差し置いて、何故この絵を最後に持ってきたか・・・
それは、私がギュスターブ・モローの絵が大好きだからです

印象派の画家たちとほぼ同時代に活動したモローは、
物語を通じて芸術や人間の生というテーマを表現する
「象徴主義」の先駆的画家ともいわれており、
聖書やギリシャ神話を題材に、幻想的な空想の世界を創り出しました。
(サロメ、一角獣、ケンタウロス、天使など・・・)
彼は、自分のことを「夢を集める職人」と表現していたのだとか

また、博学で、後年には国立美術学校の教授の任につきます。
教え子にはアンリ・マティスや、ジョルジュ・ルオーなどがおり、
(今回の展覧会に、マティスやルオーの絵も展示されてました!)
モローは、彼の様式とかけ離れた多くの画家達に影響を与えました。

モローは、スケッチや水彩画、油彩画などを製作しましたが、
私は、とりわけ彼の水彩画がすごく好きなんです!
宝石のように繊細で美しく・・・かつドラマティック
暗くて不吉な印象の絵が多いのですが、それがとても神秘的・・・
今回、展示されていた≪化粧≫も、水彩画でした。
モローの絵は一点だけの展示でしたが、
憧れの人と突然逢えたような気がして、本当に嬉しかったです
化粧
ギュスターブ・モロー≪化粧≫1885-90年頃

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BEST of the BEST展の記事は、まだまだ続きます・・・
記事が長くなってしまったので、一旦、半分ほどの内容をアップします
(長くなってスイマセン・・・伝えたいことを、最小限のセンテンスでまとめていくのは、何とムズカシイことでしょうか・・・)

展示コレクションの内容が、価値の素晴らしさはもとより、質や量ともにボリューミーすぎるので、
今回は、西洋コレクションから、割愛しまくって本当に一部だけをご紹介させて頂きました


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慧喜

Author:慧喜
広島県出身 関東住みです。
アートに関すること
アーティスティックな世界に触れて
自分が感じたことを
アップしていきます。
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関わった全ての皆さんの
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