ブリジストン美術館に行ってきました。開催されていたのは、「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展です

ブリジストン美術館とは、株式会社ブリヂストンの創業者・
石橋正二郎さんの個人コレクションを公開するため、
1952年に開館した美術館です。
開館63年という歴史を持つ美術館ですが、ビル新築工事のために5月18日より数年に渡り休館するそう。
(再開は「東京オリンピックの前には」とのことです・・・)
休館する前に是非に!!と駆けこみ的に行ってみたところ、同じ考えの人が多かったみたいで、めっちゃ混雑してました

チケットを買うのに、外にまで行列ができるとか・・・汗
石橋正二郎さんは戦前、日本近代洋画を収集していましたが、
戦後「日本の洋画家達の作品と、彼らがお手本にしたフランスの画家達の作品を一緒に並べたら、光彩を放つだろう」
との想いから、フランスの西洋美術を収集しはじめました。
「明るい絵が好き」で、とりわけ印象派を好み、質の高いコレクションを作りあげていきました

1950年(昭和25年)に初渡米した際、都心のビルにあった
ニューヨーク近代美術館に感銘を受け、
帰国後、自らのコレクションを一般公開することを決意し、都心の一等地にブリジストン美術館を設立。
当時、フランス美術を常設で見られる都内唯一の美術館だったそう。
欧米への渡航が困難な時代に、一般の人々が西洋美術に触れる場となり、若い画学生の学びの場ともなりました

ブリヂストン美術館の核となるコレクションは、19世紀以降のパリを中心に展開されたフランス美術と、
(マネ、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、マティス、ピカソなど、日本で人気の高い印象派など)
フランス美術から影響を受けて発展していった日本近代洋画など。
(黒田清輝、青木繁、坂本繁次郎、藤島武二、安井曾太郎、藤田嗣治など)
1962年には、石橋コレクション50点がフランスに渡り、
パリ国立近代美術館で展示され、
「印象派のコレクションとしては、世界十指の一つ」と好評を得て、石橋正二郎さんの存在はフランスメディアの注目を集めました。
そして、ブリジストン美術館設立後、「美術館を私物化することなく、広く社会と共有したい」という思いから、
財団法人石橋財団を設立。コレクションの大半を財団に寄付して、美術館の運営と管理を委ねました。
同時に、
石橋美術館も創設して、郷里である福岡県久留米市に寄贈。
現在も、石橋コレクションを軸として、60年以上にわたり継続して作品収集を行っているのだそうで、
石橋財団が持っているコレクション数は、現在2585点

(そのうち、1625点が東京のブリジストン美術館に、960点が福岡の石橋美術館で管理されています)
これらのうちから、最高で最高の160点を選び抜き、一挙公開したのが「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展なのです
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~↓そんな優れた展示作品の中から一部分ですが、紹介させて頂きます!・・・まずは、クロード・モネの≪睡蓮≫
↓日本でも人気の高い連作の1枚です。睡蓮の形も定かではない抽象画のような絵ですが、配色も美しいですし、
穏やかな自然の中で、自分が池の前に佇んでいるかのような心地よさを感じますね・・・

モネは、少年の頃から日本が好きで、 浮世絵の収集家でもありました。その日本趣味は、 自宅の庭を日本庭園風に造りあげるほどで、 しだれ柳を植え、池を造り太鼓橋を架けました。 ≪睡蓮≫は、後半生30年にわたって取り組み、 作風をどんどん変えていきましたが、 初期の頃の『睡蓮』には、 その太鼓橋が描かれていたりします。 (展示作品は、描き始めて4、5年くらいのもの) モネの作品には、浮世絵の題材や構図から インスピレーションを受けているものが多く、 葛飾北斎が連作作品を多く制作したように、 モネもまた多くの連作を制作したということから、 浮世絵から、影響を強く受けていた・・・ ということが分かります
|  クロード・モネ≪睡蓮≫1903年 |
モネが描いたイメージは、現代の私たちにとって、とても優しく馴染みやすいものですが、
モネが作品を発表した頃のヨーロッパでは、絵画の世界には階級制度があり、モネの絵は「印象を描いたにすぎない」
と酷評される時代でもあったのです。当時は、歴史的に意義の深い場面などを写実的に仕上げる絵画が尊重されていたため、
モネの作品は、近代的でもあり、また挑戦的でもあったのです

印象主義の先導者でもあったモネ。先導者であったがゆえの製作の苦労が偲ばれる言葉も残されています。
「
夜の間、私は自分が理解しようとしているものに絶えず悩まされる。毎朝、疲労を断ち切り、起き上がる。
夜明けの到来は私に勇気を与えてくれるが、アトリエに足を踏み入れるや、すぐに不安が蘇る・・・・・・。
絵を描くことはかくもむずかしく、苦しい。昨晩は、秋の落葉と一緒に6枚のキャンヴァスを燃やした。」
モネは、「光の画家」と呼ばれており、捉えどころのない特性を持つ”光”を表現することを、一生涯模索し続けました。
彼は、「連作」という形で、風景などの同じ主題を、異なる光のもとで何十回も描き続けたのです
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~次に、同じくモネの≪黄昏、ヴェネツィア≫という 色彩の美しい作品 → → →
1908年、68歳だったモネは、知人の誘いで 妻アリスとともにヴェネツィアを訪れました。 この旅行は、健康状態と視力の減退に悩まされていた当時のモネにとって、静養が目的でした。
が、多くの画家たちを魅了してきたヴェネツィアの 美しさに魅了され、ホテルに長期滞在して 約3ヶ月間制作に没頭することに・・・。 1912年には、ヴェネツィア作品だけの展覧会を開き、大成功をおさめます
|  クロード・モネ≪黄昏、ヴェネツィア≫1908年 |
夕日に染まる海に浮かんでいるのはサン・マルコ運河に浮かぶサン・ジョルジョ・マジョーレ教会。
運河が輝き、中世の建物を照らす光に、モネは心を掻き立てられ、それはモネが書いた手紙にも残されています。
「
私はますますヴェネツィアに夢中になっていきます…この独特の光と別れなければならない時が近づくにつれ、
悲しさがつのります。ほんとうに美しいのです」
-ギュスターヴ・ジェフロワ宛の手紙(1908年12月7日付)
モネは、美しい光景を見て、もしかしたら生きる気力、創作の情熱といったものを取り戻したのかもしれない・・・と、
私は勝手に想像しています
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~次は、ルノワールの印象主義時代を代表する作品の一つである≪すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢≫→ → → ミュージアムショップでのポストカードの中で、 一番、人気なのだそうです
この愛らしい女の子は、当時、老舗出版社のオーナーで、 社交界でも注目を浴びていたジョルジュ・シャルパンティエの 愛娘(4歳)。
当時30代半ばだったルノワールは、売れない絵描きでしたが、 シャルパンティエ夫人から、娘の肖像画を依頼されます。 当時、夫人のサロンは、ブルジョアの知的で優雅な社交場として知られていました。夫人は、この作品を非常に気に入り、 以後、上流サロンに出入りするようになったルノワールには 有力者からの注文が相次ぐようになるのです。
女の子の可愛いドレス、赤い珊瑚のネックレス、 重厚な絨毯や椅子などから、当時の裕福層の生活が窺えます。 このような裕福なパトロンに恵まれたことは、 ルノワールの人生に於いて大きかったことだと思います
|  ピエール=オーギュスト・ルノワール ≪すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢≫1876年 |
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~次は、ギュスターヴ・カイユボットの ≪ピアノを弾く若い男≫→ → → 2011年に、ブリジストン美術館が購入。 カイユボットの絵は、日本にはそれまで 他美術館に1点が所蔵されるのみだったので、 大ニュースにもなったのだとか。
裕福な繊維業者の子息であった彼は、 画家であると同時に、友人の印象派の 画家たち(モネ、ルノワール、ドガ等)の 作品を買って生活を支えたパトロンと しても知られています。この絵のモデルは、 仲の良かった弟マルシャルで、 パリ中心部の豪華な自宅の中を描いたもの。 ピアノは当時最新式だったエラール社製。 近代都市パリに生きたブルジョワジーの 生活が伺えますね |  ギュスターヴ・カイユボット≪ピアノを弾く若い男≫1876年 |
カイユボットがフランス政府に遺贈したコレクションは、現在は、オルセー美術館の核になっているのだとか。
しかし、遺贈リストの中に自身の作品をあまり含めなかったので、所蔵されている彼自身の絵はわずか数点。
その理由として、裕福だったので絵を売る必要が無かったことがあるようです

彼の死後も、裕福であった遺族が個人蔵として所有し、世に出回ることもなかったので、
それがまた彼の評価を遅らせることにもなってしまいました。
印象派を支えた擁護者として有名なカイユボットですが、
近年では画家としての活動に関心が集まり、作品の再評価が急速に進んでいます

≪ピアノを弾く若い男≫は、彼が初めて参加した、印象派展出品作であるのもこの作品をますます重要な物にしています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~次は、ロートレックの ≪サーカスの舞台裏≫→ → モノトーン調の絵ですが、油彩画で、 ロートレックが23歳の頃の作品だそうです。 画家になることを父親から反対されていたため、 当初、この絵に、自分の名前を逆さ読みにした 「トレクロー Treclau」と表記していたのだとか。 でも、展覧会への出品を前に、彼は署名を本名の 「ロートレックLautrec」に書き換えたそうです。 この絵はロートレックが父親の反対を押し切り 画家としての一歩を踏み出した記念的作品・・・ ともいえるかもしれません。 この作品に描かれているのは、サーカスの舞台裏。 華やかな表舞台とは対照的な薄暗い舞台裏が モノトーンの画面で表現されています
|  アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック≪サーカスの舞台裏≫1887年頃 |
貴族の家に生まれた彼は、子供の頃に繰り返し事故に遭い、両足を骨折しました。
それにより下半身の成長がストップしてしまった姿は、大人になっても子どものようだったとか・・・。
ロートレックは、自由奔放な生き方をした芸術家の典型で、パリのカフェや娼館などに入り浸り、
歓楽の世界に生きる人々の華やかな姿や悲哀を描き続けました。
娼婦や酔っ払いの姿を、何らかの感情や批判などが入ることなく、ありのままを表現しました。
それは、ロートレックが彼らを愛し、理解し、一体となっていたからだとも言われています
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~次は、パブロ・ピカソの≪腕を組んで座るサルタンバンク≫→ → ピカソは、技法と様式の独創性を幅広く展開していった人ですが、 一時期、「新古典主義の時代」という写実的で彫刻的な絵画を 描いていた時代があります。 ≪腕を組んで座るサルタンバンク≫は、その代表作です。
サルタンバンクとは最下層の芸人のこと。 定住して演技場に出ることはなく、縁日などを渡り歩き、 即興の芸を見せます。 ピカソは当時、道化師たちや芸人たちとも親しかったようで そんな彼らを多く描いています。 この作品は、そういう社会に生きる人たちへの ピカソの共感から生み出されたというよりも 自分自身を、道化師たちや芸人に重ね合わせて 描いたのかもしれません。
画面左上に女性像が塗り潰された痕跡がありますが、 それもこの絵に余韻を与えているかのよう・・・ 科学的な調査によると(赤外線カメラ) サルタンバンクに寄り添うように若い女性の姿が 描かれていたようです。恋人同士なのだろうか・・・ |  パブロ・ピカソ≪腕を組んで座るサルタンバンク≫1923年 |
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~続いて、ピカソ≪女の顔≫→ → → ≪腕を組んで座るサルタンバンク≫と同様、古典主義時代の作品です。 ピカソは生涯の中で、何度も大きく画風を展開していった人ですが、 その画風と同じように、付き合う恋人も次から次へと変えたことで知られ、 彼女たちはときにピカソの絵画にも登場します。
≪女の顔≫のモデルは、 ピカソの最初の妻、オルガ・コクローヴァと云われています。 オルガは、ロシア将軍の娘で、貴族の血を引くバレエダンサーでした。 この絵は、妻オルガと南仏のアンティーヴ岬で過ごした時に描いた作品。 画面をよく見ると、表面がざらついているのですが、 アンティーヴの海水浴場の砂を、絵具に混ぜ合わせたのだとか この時、ピカソはアメリカ人画家ジェラルド・マーフィーとその妻サラと 会います。この夫妻は、ピカソと家族ぐるみの親交があったようで、 サラの整った美貌にピカソは大いに心惹かれ、 この年に、彼女の肖像画を集中的に描いているのです。 なので、≪女の顔≫は、妻オルガではなくサラがモデルなのではないか・・・ という説もあります。
|  パブロ・ピカソ≪女の顔≫1923年 |
ピカソは、陽気で精力的な人だったらしく、多くの女性と関係を持ったことで知られています

が、結果的にですが、必ずしも幸せだったとは云い難いようですね・・・

創作へのエネルギーが、そのまま女性への情熱ともなったのでしょうか?
オルガは、ピカソと結婚する時、夫の家に挨拶に出向きました。すると、姑になるピカソの母から次のように言われたのだとか。
「どんな女性でも、私の息子パブロと一緒では幸せになれないよ」
さすがに母は、よく分かってた笑
ところで、そんなピカソ様が残した名言集というのがあって、これが結構イイのです笑
(ご興味のある方は是非
→ピカソ名言集)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~そして、最後にギュスターブ・モロー≪化粧≫→ → → ピカソ様を差し置いて、何故この絵を最後に持ってきたか・・・ それは、私がギュスターブ・モローの絵が大好きだからです
印象派の画家たちとほぼ同時代に活動したモローは、 物語を通じて芸術や人間の生というテーマを表現する 「象徴主義」の先駆的画家ともいわれており、 聖書やギリシャ神話を題材に、幻想的な空想の世界を創り出しました。 (サロメ、一角獣、ケンタウロス、天使など・・・) 彼は、自分のことを「夢を集める職人」と表現していたのだとか
また、博学で、後年には国立美術学校の教授の任につきます。 教え子にはアンリ・マティスや、ジョルジュ・ルオーなどがおり、 (今回の展覧会に、マティスやルオーの絵も展示されてました!) モローは、彼の様式とかけ離れた多くの画家達に影響を与えました。
モローは、スケッチや水彩画、油彩画などを製作しましたが、 私は、とりわけ彼の水彩画がすごく好きなんです! 宝石のように繊細で美しく・・・かつドラマティック 暗くて不吉な印象の絵が多いのですが、それがとても神秘的・・・ 今回、展示されていた≪化粧≫も、水彩画でした。 モローの絵は一点だけの展示でしたが、 憧れの人と突然逢えたような気がして、本当に嬉しかったです
|  ギュスターブ・モロー≪化粧≫1885-90年頃 |
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~BEST of the BEST展の記事は、まだまだ続きます・・・

記事が長くなってしまったので、一旦、半分ほどの内容をアップします

(長くなってスイマセン・・・伝えたいことを、最小限のセンテンスでまとめていくのは、何とムズカシイことでしょうか・・・)
展示コレクションの内容が、価値の素晴らしさはもとより、質や量ともにボリューミーすぎるので、
今回は、西洋コレクションから、割愛しまくって本当に一部だけをご紹介させて頂きました

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