慧喜~Trip of the art

BEST of the BEST展 (2)

前回に引き続き、ブリジストン美術館「ベスト・オブ・ザ・ベスト展」の記事です。 (前回の記事はコチラ
前回は、西洋コレクション(の一部)をご紹介させて頂きましたが、今回は、日本の近代洋画のご紹介です

株式会社ブリジストンを創立した石橋正二郎氏ですが、本格的に絵画収集を始めるきっかけとなったのは、
福岡県久留米市で、小学校時代の図画教師だった洋画家・坂本繁次郎との再会でした。
齢28歳にて夭折した同郷の画家・青木繁の作品を惜しんだ坂本繁次郎は、
石橋氏に、青木繁の作品を集めて美術館を作ってほしいと語ったのだとか。
その言葉に感じ入った石橋氏は、その後、青木繁を中心として日本近代洋画の収集を始められたのだそうです

青木繁(1882-1911)の代表作≪海の幸≫
石橋氏は、作品を購入したら、好きな絵画ほど自宅に飾って楽しまれていたのだとか。
食堂の欄間には、この≪海の幸≫が架けられていて、毎朝、眺めながら朝食をとられていたのだそうですよ

海の幸1
青木繁≪海の幸≫1904年 石橋美術館所蔵  重要文化財

1904年(明治37)年の夏、東京美術学校を卒業した青木繁は、
画友の坂本繁二郎、森田恒友、そして恋人の福田たねと、制作旅行のため房州(千葉県)布良にやって来ました
布良(めら)に約2か月近く滞在し、数多くの海の景色を描きましたが、
のちに青木繁の一大傑作となる≪海の幸≫も、この布良海岸にて制作されました

裸の漁夫たちが大きなフカ(サメ)を抱えて、海岸に戻ってくるという、野趣にとんだ、迫力ある≪海の幸≫。
この絵は、その年の秋に白馬会展に出品され、青木繁の名を日本美術史上不動のものにします。
しかし、それ以降の青木繁の画家としての人生は、決して順調なものではなく、
最期は放浪生活の末に、28歳という短い生涯を終えました。
≪海の幸≫は、短い人生の中で、精神的にも芸術的感性においても、最も意気軒昂だった時に描かれた作品だともいえます。
運命の恋人と共に、絵筆一本で立とうとしている出発の時であった、一夏の青春と才能の煌きといったものが感じられます。

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また、石橋正二郎氏は、
日本近代洋画の巨匠、藤島武二(1867-1943)とも懇意になり、
藤島武二が保管していたローマ留学時代の作品15点を
一括して譲り受けたのだそうです。
当初から、美術館の創設を考えていた石橋氏に、
老画家から愛蔵品が託されたのでした

中でも、藤島武二の最高傑作の一つとされる≪黒扇≫ → → → →
ローマ留学時代に肖像画を得意とするカロリュス・デュランに師事。
その時に、描かれた婦人像の名作として知られています。
一度は、石橋氏に託したものの、
3日で「あの絵がないと寂しくて寝られないから」と
返してもらったという逸話が残っているのだとか
この絵に対する藤島武二の強い思い入れを感じます。
しかし、最晩年になって、石橋氏の強い懇望により、
ブリヂストン美術館に譲渡したということです
黒扇1
藤島武二≪黒扇≫1908-09年 重要文化財

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次は、黒田清輝≪ブレハの少女≫1891年→ →
日本洋画の父ともいわれている黒田清輝(1866-1924)ですが、
18歳の時に政治家を目指し、渡仏した先で
印象派の明るい絵画に出会い、魅了されます。
彼の最初の師は、ラファエル・コラン。
渡仏の2年後に、政治家を断念し画家になる決心をするのも、
コランの元で絵を描き始めたのがきっかけなのだとか。

1891年、23歳の時に、友人の画家・久米桂一郎と、
パリを発ってブルターニュ半島のブレハ島に遊びに行き、
景色や交流を楽しみながら一ヶ月滞在します。
その間に、現地の子どもをモデルに雇って人物画を描きました。
それが≪ブレハの少女≫です。
少女の燃え立つような赤毛、狂気をはらんだ風貌、
左右で大きさの異なる靴、大きく欠けた碗。
彼が好んだ穏やかな画風とは打って変わり、
筆遣いが荒々しく、画面も殺伐としています。
旅先での開放的な空気が、彼の内面にある激しい情熱を引き出した・・・・・
といわれています
ブレハの少女
黒田清輝≪ブレハの少女≫1891年

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次は、安井曾太郎≪F婦人像≫ → → →
安井曾太郎(やすいそうたろう1888-1955)は、
昭和期を代表する日本の画家です。

安井曾太郎は、19歳の時に渡仏。7年間のフランス留学の間に、
セザンヌ回顧展に遭遇して、セザンヌの絵に傾倒していきます。
第一次世界大戦の勃発と、体調不調のために帰国しますが、
セザンヌの影響からなかなか抜け出せず、
十数年もの間、長いスランプに陥ります

しかし、得意なデッサン力を生かした丹念な写生を下敷きに、
遂に、「安井様式」ともいえる独自のリアリズムを確立。
「安井様式」とは、
「対象を写実的に写したあと、形や色を単純化し、
さらに対象から受けた実感を、より明確に表現するため
強調やデフォルメを加える」
といったもので、
「デッサンの神様」とまで云われていたほど
写生に評価が高かった安井曾太郎ですが、
完成した絵は、「まるで写真のような」と
云われるようなものではありませんでした。

そんな「安井様式」と呼ばれる、
写実と非写実の中間的な独自のリアリズムによって、
多くの画家たちに影響を与え、静物画や肖像画において
多くの傑作を残すこととなったのです。

≪F夫人像≫は、美術評論家で収集家の福島繁太郎氏の
夫人である慶子さんを描いたものなのだとか。
完成後、大胆にデフォルメされているにもかかわらず、
福島夫妻はこの出来映えを気に入り、
以後、安井曾太郎を懇意にしたそうです

肖像画を依頼した夫人は、わざと細かい縞の入った、
描くのが難しそうな『安井ごろしの服』を着て
モデルになったのだとか
描かれた夫人の顔には、そんな夫人の性格も
きちんと投影されてるような・・・笑
F婦人像
安井曾太郎≪F婦人像≫1939年
薔薇
安井曾太郎≪薔薇≫1932年

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次は、佐伯祐三≪テラスの広告≫→ →

佐伯祐三(1898-1928)は、パリに恋焦がれ、
パリの下町を描き続けた画家として知られています。
1924年、ずっと恋焦がれていたパリに、
妻子と共に移り住むことになりました。そこで、
パリの路地裏を描くユトリロの作品に触発され、
製作に没頭、独自の世界を作り上げていきました。
パリの町並み全てが、彼にとって憧れのモチーフであり、愛する異国の下町を描き続けたのです

翌年、体調を崩し帰国するも、情熱を捨て切れず、
病身(肺結核)をおして、1927年に再び一家で渡仏。
以前にも増して、製作に没頭していきます。
≪テラスの広告≫は、この頃に描かれたもので、
当時、佐伯祐三のアトリエからほど近い、
パリ14区にあったカフェを描いた作品なのだとか。
テラスの広告
佐伯祐三≪テラスの広告≫1927年

≪テラスの広告≫は、佐伯作品の中でも、最高傑作と云われている作品です。
愛するパリの下町に佇む、佐伯祐三自身の憧れ(心象風景)が描かれているかのようにも感じます・・・
この頃の作品には、踊るような筆致で、黒い文字を描かれた作品が多く見られ、
これは、帰国していた僅かな期間に感得したと思われる、日本の書からの影響ではないかと云われています。

そして、1928年、パリを再訪して一年を過ぎた時、恐れていた結核により、大量に吐血します。
体が衰弱していくと同時に、精神も蝕まれていき、最期には、精神病院の一室で、30歳という短い生涯を閉じました。
佐伯祐三は、若い頃に父親を失い、弟も肺結核で亡くしているそうで、自らの生涯に対しても、死そのものへの
恐怖を持っていたといいます。自身も遺伝性の肺結核を持ってるかもしれない、という恐怖があったかもしれません。
常に死と隣り合わせだったからこそ、全身全霊で描画に打ち込んできたのかもしれない・・・
短くも、芸術家として一途に燃え上がった人生。

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最期は、藤田嗣治(ふじたつぐはる)の二点の絵。
上画像が、≪ドルドーニュの家≫
下画像が、≪猫のいる静物≫

藤田嗣治(1886-1968)別名レオナール・フジタは、モディリアーニ、シャガール等と並んで
「エコール・ド・パリ」を代表する画家の一人であり、フランスでは巨匠の一人とみなされています

1913年に、26歳でパリに渡った藤田嗣治は、
フランスに根を張る覚悟で、
西洋の画家とも対等に渡り合い、
積極的に創作活動に励みました。
結果、美術史に名を残す成功を収めました。
日本では認められなかった才能が、パリで開花。
私生活では、奇抜な扮装で舞踏会に出席し、
目立つおかっぱ頭やヒゲも手伝って
社交界の花形ともなりました。
しかし、パーティでどれほど浮かれていても、
創作活動においては誰よりも熱心で
ストイックだったと云われています

当時、活躍していたピカソをして天才といわしめた藤田嗣治の画風は、「和と洋の融合」でした。
日本画の面相筆で細い輪郭線を描く。
透明感のある下地を作り、
浮世絵のように下地を残して、肌として見せる。
それは、「乳白色の下地」と呼ばれ、
藤田嗣治の代名詞にもなったのです
(藤田嗣治は、下地の作り方を隠していましたが、
研究でベビーパウダーを使っていたことが判明。
当時、この下地が、パリの人を魅了し、
ピカソが彼の個展に来た時、
3時間近くも作品を見ていったのだとか!)

ドルドーニュの家
藤田嗣治≪ドルドーニュの家≫1940年
猫のいる静物
藤田嗣治≪猫のいる静物≫1939-40年

1929年、世界恐慌を機に、16年ぶりに一時帰国。
日中戦争、次いで太平洋戦争が始まると、軍部の要請で戦線を取材し、戦争画の製作に没頭します。
藤田嗣治は、従軍画家の仕事に従事することによって、少しでも祖国に貢献したいと願っていたのだとか。
そして、それはパリ帰りの彼にとって、日本人としての自分を受け入れてくれる場所であったのかもしれない・・・とも思います。

やがて、戦争画家としての主導的立場となっていき、各国の戦地に派遣されます。
そして終戦後に、一転して手のひらを返されたかのように、日本画壇から戦争協力者として批判を浴び、
その責任をとる形で、彼は日本を離れることになります。
彼が残した手記には、「『国のために戦う一兵卒と同じ心境で書いた』のになぜ非難されなければならないか」
と、当時の想いが述べられています・・・
この当時の批判には、国際舞台での成功を収めた藤田嗣治に対する、日本画壇の嫉妬が根底にあったようです。
その後も、日本では終始、藤田作品が正当に評価されることはなかったのだとか・・・

そして、藤田嗣治は10年ぶりに渡仏して、仏国籍を取り(日本国籍は抹消)、カトリックに改宗。
名前をレオナール・フジタと改めた彼は、二度と日本の地を踏むことはありませんでした。
晩年は、世間と交流を絶ち、空想上の子供の絵と宗教画に没入したといいます。

藤田嗣治が残した手記には、
「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は世界に日本人として生きたいと願う。
それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う」
という言葉が残されています。
パリで、異邦人としてではなく、誰よりも日本人として生涯を賭けていきたかった彼の魂の叫びが聞こえてきそうです。

藤田嗣治のことを調べていくと、ポーラ美術館(神奈川)にも彼の作品がたくさん収蔵されているみたいで、
そちらもまた、素晴らしいコレクションばかりです・・・
(ご興味のある方はクリック → → →ポーラ美術館HP

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「ベスト・オブ・ザ・ベスト展」は、本当に見応えありました
とても、個人のコレクションから出発した私立美術館とは思えないほど、
質の高い作品がたくさん観れて良かったです。
そして、意外にも敷居が高くないというか気さくな雰囲気なのもグッド
観賞後に寄ったミュージアムショップでは、
ポストカードが一枚50円で売ってたので、つい大量買いしてしまった
50円って安い!大体、どこの美術館行っても100円以上しますよね?
(休館前だったからかな?)
入館料も、一般800円と、かなりお安いと思います
(私は、100円引きクーポン持参で700円でしたっ嬉)

ところで、最後に・・・エドウァール・マネ≪自画像≫1878-79年→ → →
クロード・モネと同様、印象派の画家として有名なマネですが、
マネは40代の頃に自画像を二枚だけ描いているそうで、
そのうちの一枚が、今回、展示されていました。

もう一枚は、2010年にロンドンのサザビーズ(オークション)で、
2240万ポンド(約30億円)で落札されたのだとか。
しかも、それは上半身だけの自画像だったそうです 
すると・・・下世話な話、ブリジストンの≪自画像≫は、
一体、どれくらいの価値があるんだろう・・・?!って思っちゃいますよね笑
そんな価値のある芸術品が、都心の一等地にある美術館で
お安い入館料で観賞できるのですから、スゴイと思います
自画像
エドウァール・マネ≪自画像≫1878-79年

バブル期などに、多くの資産家が、割のいい運用資産として美術品などに夢中になっていたことがありました。
石橋コレクションは、それとは全く異なるもので、恩師の頼みから青木繁の作品を収集し始めたことに端を発しており、
更に、美術館を創設した石橋正二郎氏が 「世の人々の楽しみと幸福の為に」「名品は個人で秘蔵すべきではない」と、
文化的公共性に対し優れた意識を持った指導者の方であったこと・・・
そのことも併せて深く感動した「ベスト・オブ・ザ・ベスト展」でした

ブリジストン美術館の再開、本当に楽しみです 前回の記事と同様、今回も長くなってしまいました・・・
訪問して下さった皆様、最後まで読んで頂いて、本当に有難うございます・・・


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コメント

次は何処へ

慧喜さま、こんにちは。
復帰後の美術館巡り、お疲れさまです!!
多くの名画の紹介と画家の一面など色々教わりました。
私も一緒に美術館巡りをしているような感じにさせて頂きました。
次は何処へ連れて行って頂けるのかな~!!
アート雑記も楽しみにしております。

mnsuisaiさん☆

mnsuisaiさん☆

コメント有難うございます!

今回の記事も長くなってしまって
ごめんなさい・・・--;
少しでも、色々な画家の方を紹介させて頂きたくて><

<私も一緒に美術館巡りをしているような
<そう言って頂けると、本当に嬉しいです:;
本当はもっと美術館に足を運んでるのですけど、
なかなか記事作りが追いついてないのが現状だったりします汗。
もっともっとお伝えできるように頑張ります!

アート雑記の方も頑張りますね!
(実は、これが一番進んでない・・・笑)

(>ω<)(>Д<)(>∀<)

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慧喜

Author:慧喜
広島県出身 関東住みです。
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